地球一周、二人旅体験記2007.8)

サンフランシスコ > マイアミ > バハマ > キーウエスト > マドリード > トレド > カサブランカ > ラバト > フェズ > ローマ > ナポリ(ポンペイ) > ベニス > ローザンヌ > ジュネーブ > パリ

 

よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば野次馬根性であるが、何にでも興味を示す。 その一環で、若い頃から旅行が大好きであった。 二十歳代の結婚前には、日本の各都道府県の大部分を何らかの形で巡っていた。 いつかは地球を一回りして見たいと、常々思っていた。

1994年初め、いよいよ、40年近く勤務した会社を定年退職し、系列会社へ移籍されることとなった。 幸い後任者も早々と決まった。 取り残した年次休暇も40日近くある。 系列会社は4月1日からの出勤である。 ここは長年の希望を実現する絶好のチャンスである。 業務の引継ぎを早めに済ませ、2月下旬から3月末まで、1ヶ月の休暇を利用して地球を一回りすることにした。

妻に打ち明けると、反対ではないがそれ程大賛成でもないようだ。 2人だけの世界旅行に不安があるのだろう。 旅にはトラブルやハプニングは付きものだ。 ましてや、添乗員が総て面倒を見てくれるパッケージ旅行と違い、行ってみないと上手く行くかどうかは分からない。 まあ、何とかなるだろう。

 

大まかな条件は以下の通り。

全旅行日程は2月下旬から1ヶ月

冬の季節でもあるので、出来るだけ寒い地域は避け、暖かい地域を選ぶ

行き先はアメリカ大陸、アフリカ大陸、ヨーロッパ大陸から選ぶ

長距離移動は飛行機、短距離は鉄道とバス

出来れば船によるクルーズも

過去に訪ねた経験のない都市を選ぶ

予算は少なめに

 

以上の条件から、

2月26日出発、3月25日帰国

 

訪問都市は、サンフランシスコ > マイアミ > バハマ > キーウエスト > マドリード > トレド > カサブランカ(注記) > ラバト > フェズ(またはマラケッシュ) > ローマ > ナポリ(ポンペイ) > ベニス(またはフィレンツエ) > ローザンヌ > ジュネーブ > パリ を予定

但し、状況に応じて変更あり。

注記:エジプトに寄りたかったが、テロの危険が報じられていたため変更した。

 

準備事項

「地球の歩き方」で訪問都市の大体の様子を調査

ヨーロッパの鉄道時刻表を購入し、イタリアとスイスの鉄道路線と所要時間を調査

世界一周航空路線の、旅費と利用条件を確認

ガリバー旅行社のホテル一覧と宿泊日未定のバウチャーを準備

 

出発まであと3日、準備を完了し、パスポートの有効期間を再度チェックしたところ、サー大変、妻のパスポート有効期限が3ヶ月を切っている。 前回確認したときに、有効年を1年間違えていたのだ。 急いで調べると、今回の訪問予定国の内、イタリアとフランスは「入国時にパスポート有効残存期間は6ヶ月以上必要」とガイドブックに明記されている。 旅行会社、両国の大使館、県のパスポート発行所、その他心当たりのところに電話をして、「3ヶ月未満では絶対に入国できないか」と問い合わせたが、どこも「規則ではそうなっています」との回答のみで、参考になる答は返ってこない。 旅行を中止するか? 強行するか? ここまで来れば出発するしかない。 まあ何とかなるだろう。

 

 

2月26日(土)いざ出発。

大阪空港発 成田空国経由(16:35) ユナイテッド航空 サンフランシスコ行き

日付変更線経由、同日 8:40 サンフランシスコ着

市内のホテルに投宿後、犬のマークで知られるグレイハウンドの市内観光バスに乗り、ゴールデンゲートブリッジ(歌の文句のとおり、半分は霧に霞んでいた)、ベイブリッジ、フィッシャーマンズワーフ、などを巡る。 観光ガイドと運転手を兼ねた大男の黒人のおっちゃんは、とても親切で愛想が良い。

 

2月27日(日)

シティホール前の朝市を見て、ケーブルカーにも乗った。 寒くはないがコートが欲しい気候のシスコ滞在は、1泊しただけで早々に切り上げ、午後にはマイアミに向けて出発。

 

13:25 サンフランシスコ発 21:44 マイアミ着

マイアミビーチ地区のホテルに投宿し、7日間滞在

マイアミは12月から2月頃が絶好の観光シーズンとなる。 半袖シャツにショートパンツが丁度良い気温である。 そのため、ニューヨークやボストンなど、アメリカ北部からの避寒の観光客が沢山訪れる。 朝、ホテルのレストランに行くと、高齢者の観光客が大勢朝食を取っていて、私達にも愛想良く挨拶の声を掛けてくれるので、気持ちが良い。

 

市内観光のマイクロバスに乗る。 私達の他には2人のアメリカ人中年女性が同上し、4人とガイド兼運転手の5人で市内を巡る。 日本語ガイド付きの観光バスもあるが、数が少なく値段も高い。 他に、ガイド兼運転手(日本語はしゃべれない)に日本語の観光案内テープレコーダーを備えたものもある。 ドイツ語、イタリア語のガイド付きもあるが、英語のみが一番バスの本数も多く、料金も安い。

 

外装がカラーフルなホテルやコンドミニアムが連なるマイアミビーチ、マイアミのベニスと地元の人が呼ぶ入江地区(後日訪れたイタリアのベニスとは全く雰囲気が違う)、ダウンタウン、ベニスの家と呼ばれるプール、マイケルジャクソンの別荘、などをゆっくりと見て回った。

ファミリーレストランで食事をしていると、一人の見知らぬ日本人男性が近付いてきて、「同席させてもらってもよろしいか」と問うのでOKすると、「学会の仕事で来て、ダウンタウンに泊まっているが、夜間は治安が悪く怖いので、ビーチ地区に食事に来た」と言っていた。

 

フロリダといえば、カリブ海クルーズが有名である。 これを見逃すわけにはいかない。 宿泊中のホテルでバハマクルーズを予約すると、旅行会社がホテルに車で迎えに来てくれる。 これに乗って港へ向かう。 簡単な出国手続き(アメリカから一旦出国することになる)を済ませて、クルーズ船に乗り込む。 5万トンほどの大型客船である。 乗客はアメリカ人の中高年齢者が多く日本人は私達二人だけで、アジア人も殆んど見かけない。

 

乗客の中に全く同じ帽子とジャンバーを着たグループがいた。 ジャンバーの背中と帽子には第2次世界大戦の爆撃機隊の刺繍がされていた。 退役軍人のグループが何周年かの記念旅行に来ているらしい。

甲板に出ると簡単なステージが設けられ、その上で数人の楽団員が軽やかなラテン音楽を演奏していた。 何とも軽やかで、思わず体がうきうきしてくる楽しいリズムである。

 

早朝にホテルを出てきたので、船内のレストランには、朝食用に何十種類もの豪華な料理が並べられ、バイキング形式で自由に食べられるように用意されていた。 美味しい朝食と同時に船が動き出す。 船内の劇場ではショウーが始まり、カジノもご開帳である。

ところが、船がゆっくりと沖合いに出て、バハマに向かって走りだした頃、大型船が僅かではあるが揺れだした。 フロリダ半島の西側であればカリブ海になり、揺れは少ないらしいが、これが同じ半島の東側は、もう太平洋である。 ゆっくりゆっくりと上下にゆれる。 このゆっくりとした揺れが、何とも気分が悪い。 私はまだ被害が少なく昼食も食べたが、妻は影響が酷く、せっかくの豪華な食事も、残念ながら食欲減退で手がでなかった。

船はグランドバハマ島のポートルカヤに寄航した。 ここにはお土産専門のフリーマーケットがあり、真っ黒なアフリカ系の男女が出迎えてくれた。

 

マイアミへの帰路、突然船内で停電が発生した。 エンジンも止まり、照明も非常灯に切り替わって船内は薄暗くなった。 ホールにいた大勢の人達も不安な様子であったが、突然数人の女性が「舟を漕げ、舟を漕げ」という歌を歌い出した。 その歌はアメリカ人の多くによく知られた歌であるらしく、つられてホールの全員が合唱しだした。 エンジンが止って静かになり、停電で薄暗くなった上に、ショーもカジノも中断して、しんみり不安そうになっていた乗客全員が、この歌で元気付けられたように明るい表情を取り戻した。 さすがアメリカ人は陽気な人達が多いと感心した。 やがてエンジントラブルも解消し、元の賑やかさが帰ってきた。 何事もなく「目出度し、目出度し」であった。

マイアミの港へ帰港し、再び入国の手続きをした際、中年女性の入国審査官が家内のパスポートをチェックした後、一言「残りの有効期間が短いので注意しなさいよ」と警告してくれた。 さすがによく内容を視ていると思った。

 

フロリダ半島の先端から南西に向かって連なった島が点在し、これらの島々を繋いだフリーウエイが、海の上を走っている(Seven Mile Bridge などが有名)。 観光バス(マイクロバス)に乗ってマイアミから3,4時間(約250km)、途中の島も観光しながら走ると、その先端にある小さな町に到着した。 小説家へミングウエイが滞在したことで有名なキーウエストである。 遊園地にある子供用乗り物のようなミニ観光列車に乗って町を巡る。 町の南端は「アメリカ本土の最南端」で、それを記したコンクリートの碑が立っていた。 この南の海上には、アメリカと対立するカストロ大統領のキューバ島がある。 へミングウエイの別荘は高い塀と鬱蒼とした木立に囲まれていて、観光客が見物していた。

 

フロリダ半島には広大な湿地が各地に点在している。 その中でも最大の湿地がエバーグレーズ国立公園である。 湿地は浅いので、喫水の浅い20人乗り程のプロペラ船(船尾の甲板上部に小型飛行機のプロペラが設置されている)に乗って、園内を猛スピードで巡る。 さすがはアメリカ、とにかく広い。 園内には、ワニ、カメ、小鳥が生息しており、葦のような人の背丈ほどの草が生い茂っている。 ガイド兼運転手のおじさんが動物を見つけると、スピードを落として近付き、説明してくれる。 公園内にはワニ園もあり、大きなワニに飼育者が跨ったり、観光客にも子ワニを抱いて、写真撮影をさせてくれる。

 

3月5日(土)

約1週間の滞在後、マイアミを発ってヨーロッパに向かった。

13:35 マイアミ発 16:04 ワシントン着

マイアミで遊んでいる内に季節は2月から3月に変わっていた。 ワシントン空港のターミナルビルの窓から外を見ると、滑走路の端の方にヨーロッパから飛んできたと思われる超音速機コンコルドが1機止まっていた。 更にその向こうにはまだ雪が残っていた。 同じアメリカでも、陽光溢れるマイアミとは何と違うことだろう。

 

同日 17:30 ワシントンを発って、機中で寝ている間に大西洋を飛び越える。

3月6日(日)7:00 スペインのマドリッドへ到着。

プラド美術館の近くのホテルに投宿した。 早速、マヨール広場、日曜ノミの市、スペイン広場、王宮、レディーロ公園、プラド美術館、などを観光した。 ホテルの部屋の直ぐ前がロータリーで広場になっており、中央にはライトアップされた噴水が見えてきれいであったが、夜中に何度もパトカーがサイレンを鳴らして通り、目を覚まされた。

 

昼食を食べるため、街のレストランに入った。 さて、スペイン料理は何が美味しいのだろう。 出されたメニューを見てもよく分からないので、周りのテーブルを見渡す。 1つ離れたテーブルに座っていた家族ずれの一人と目があった。 笑いかけると、相手も微笑み返してくれた。 食べているものを見るとイカや貝類の入ったシーフードのパエリアで、なかなか美味しそうに見える。 早速ウエイターを呼んでパエリアを指差し、それと同じものを注文した。 ところが、暫くたって出てきたのは、スープ、野菜、魚料理である。 それらを食べているともう殆んどお腹が一杯になってきた。 最後になってパエリアがどさっと出てきた。 とても美味しそうではあるが、食べきれない。 家族ずれが食べていたのはスープから始まるコース料理で、私が見たときは最後のパエリアであったらしい。 

欧米人の大食ぶりは過去に何度か経験している。 大型で分厚いピッツバーグで食べたステーキ、人の顔ほどもあるシドニーで食べたクロワッサン、厚みが2センチ以上もあるハワイのピザ、などなど、何しろボリュームの大きさには驚かされる。

 

ホテルの近くを散歩して帰り道、丁度サラリーマンの帰宅時間となった。 何となく見ていると、その内の何人かが道沿いの店に入っていく。 店を覗いてみると、カウンターがあり、酒場になっている。 帰宅途中のサラリーマンがそこに寄って美味そうにビールを飲んでいる。 私達も試してみようと中に入った。 カウンターがあってグラスが並んでいるのは日本と同じ感じだが、違う点はカウンターの天井から大きな燻製の豚の脚が何十本もぶら下げられている点である。 サラリーマン達はカウンターやテーブルに座り、談笑しながらビールなどを飲んでいる。 私達もテーブルに座り、ビールと豚の脚(燻製の生ハム)を注文する。 豚肉のかたまりから2ミリ程の厚さにスライスした生ハムを、何枚も皿に盛って出してくれる。 塩気の効いた生ハムとビールが実によくマッチして、本当に美味しかった。

 

3月7日(月)マドリッドから観光バスを利用してトレドへ向かった。 何と大型バスの客は私達2人の他は運転手の男性とガイドの女性の4人だけの貸切りであった。 マドリッドからトレドへは、バスで2、3時間ほど、道の両側に丘陵地帯の畑を見ながら走る。

トレドは周囲を河に囲まれ、中世の石畳の道や建物がそのまま残された、古いが実に美しい街である。 エル グレコの壁画で飾られた中世の大寺院も素晴らしいし、中世そのままの石畳の路地が、今も使われていて残っている。

 

ところで、当地で次の訪問国モロッコ行きの航空券を購入する必要があった。 同時にパスポート有効期間が気になっていたので、マドリッドのJTBの事務所に立ち寄って、3ヶ月未満の有効期間でイタリアに入国できるかどうかを尋ねて見た。 応対に出たJTBの日本人女性スタッフも、今まで経験がないので分からないと言い、イタリア大使館その他に尋ねてくれたが、やはり日本での回答と同じで、「規則では6ヶ月必要となっている」と言う以上の回答は得られなかった。 止むを得ず、その場でできることとして、「3月13日にイタリアへ入国して3月20日には間違いなく出国する」旨の旅行日程の証明書を作成して貰った。 保証はできないが、イタリア入国の際に入国審査官と揉めた場合、役に立つかも知れない。

 

3月9日(水) マドリッド発 カサブランカ着

カサブランカ空港の入国審査を待っていると、一人の日本人の若者が声を掛けてきた。 こんな所にも日本人が一人旅に来ていたのだ。 他にはアジア人らしき人は一人もいなかった。

当日の宿はカサブランカではなく首都のラバトに予約していたので、空港からラバト行きのバスに乗る。 沿道の両側には牧草地のような平野や畑が続いていた。

 

ラバトのバス停で降りると、十数人の現地の人たちが私達を取り囲んだ。 荷物を運んでチップを得るためらしい。 中にスカーフを被った老婆がいて、「マダーム、マダーム」と言って、妻に手を出してくる。

因みに、モロッコは第2次世界大戦終了後までの約半世紀間、フランス政府の保護下にあったので、英語はあまり通用せずフランス語が一般的であり、老婆も妻に対してマダームとフランス語で呼びかけた。 妻はそんな雰囲気に驚き、恐怖を感じたが、私はかつてインドで十二分にこの種の経験をしていたので、慌てることもなく、集まった人達の中からタクシー運転手を選び、手荷物のトランクを車に積み込ませてホテルへ向かった。

 

ホテルはドイツ人の団体観光客が一組泊まっていたが、全体にひっそりとしていた。 受付のおじさんに貴重品預かりを頼んだところ、茶色の封筒を出してきてこれに入れろと言う。 貴重品を入れて封をして渡すと、ポイッとカウンターの引き出しに仕舞ってしまった。 このおじさん、大丈夫かなあ?

 

翌朝、夜明けと共にコーランを読み上げる声が聞こえてきた。 部屋の窓から、近くに建つ立派なモスクの塔が見える。 このモスクからスピーカーでコーランを浪々と流している。 さすがに回教徒の国である。 また、回教国では毎年1ヶ月間の断食(ラマダン)が定められている。 太陰暦を採用しているため、その時期は毎年少しづつずれて行われる。

私達が行った時は、丁度この断食の季節(ラマダン)に入っており、人々は戒律によって夜明けから日没まで、水も含めて食べ物は一切口にすることを禁じられている。 町中のレストランも、日中は総て店を閉めており、日没後に開店する。

但し、外国人は断食を除外されているので、私達は通常通り朝、昼、晩と3回食べることができるが、場所はホテルの中などの外国人向けレストランや喫茶店に限定されている。

 

簡単な地図を頼りに、ホテルの近辺を散歩しながら、街を見て回った。 ラバトは首都ではあるが、あまり大きな建物や近代的なビルはなく、比較的静かで清潔な街である。 郊外にはローマ時代の遺跡や、コウノトリの巣などが見られた。

ホテルに戻り、カウンターのおじさんに、翌日の観光のためのタクシーと観光ガイドを依頼したところ、「OK、翌朝来るように手配しておく」とのこと(観光には専門のガイドが必要、と案内書には出ていた)。

翌朝ロビーに出てみると、色の浅黒い正直そうな、30歳代のタクシーの運転手が待っていたが、観光ガイドは来ていない。 昨日のおじさんに尋ねると、「運転手だけでも大丈夫、ガイドが必要なら現地でも雇える」という。 まあ何とか成るだろうと、旧式のベンツのタクシーに乗って観光に出かけた。

 

モハメット5世の廟、建設中に放棄された大きなモスク跡、ウダイバの城壁、カスバと呼ばれる古い町並み、などを見て回った。

ラバトのマーケットは、近代的な部分と旧来の部分が交じり合ったような形で、肉や野菜などが売られ、沢山の人達で賑わっていた。 

一方、メディナ(古くからある市場)は、細い通後の両側に野菜、果物、魚、などの食料や、衣料品、金属製品、等々、何でもありで、店頭に山のように積み上げられていた。

細い通路と行き交う人の間を、運転手の後について進む。 やがてメディナを過ぎて、土壁の住宅が密集する細い坂道を通り抜け、ガイドブックにも出ていた「アンダルシア庭園」と呼ばれる高台に出た。 途中で何人かのガイドを自称する人達が、「自分達をガイドに雇え」と寄って来たが、運転手が何ごとか言って、適当に追い払っていた。 実はこれが後で大トラブルを招くことになったのだが、その時は特に気のも留めなかった。

 

この庭園は、外部とは塀で区切られ、オレンジの木が沢山植えられた緑の多い観光スポットになっていた。 園内は人もまばらで、とても静かで気持ちが良い。 地中海が見渡せる開けた場所で、お茶が飲める場所があったので、そこで休憩した。 季節は3月だが寒くもなく暑くもない丁度気持ちの良い天候である。 小柄な年配の店員に、熱いミントティーを出してもらって飲む。 運転手も一緒にと思い3つ頼んだが、店員は2つしか持ってこない。 これもラマダンのためか、或いは、客と運転手が一緒にお茶を飲む習慣がないのかも知れない(インドでは何度かそんな経験をした)。 

 

一休みの後、庭園を出口に向かって歩いていると、トントン、トントンと小型の太鼓を叩きながら、私達の前を進む数人の人達に出会った。 その時、太鼓が合図ででもあったかのように、2人の制服の警察官が近付いてきた。 何ごとかあったのかと見ていると、いきなり私達の運転手を両側から腕を掴んで連行して行った。 運転手は盛んに何か叫びながら抵抗し、それに対して警察官も何か叫びながら強引に運転手を両側から捕まえて、引きずるようにして連れ去ろうとする。 私が警察官に「どうしたのか」と尋ねても、彼等は「あなた達はそこで待っていろ」と身振り手振りで言うだけである。 運転手も警察官もアラビア語で話しており、私達には何の説明もないので、さっぱり事情が飲み込めない。

運転手と警察官はどこかへ行ってしまい、タクシーと私達だけがその場に取り残されてしまった。 どうしようもない。 待つしか無いようだ。

 

しばらく待っていると、白い民族衣装を着た背の高い老人が、私に近付いてきて、「自分は英語が話せる」と言う。 さっきの状況を見ていた様子なので「何故運転手は連行されたのか」と尋ねる。 「彼は運転手であるのに、規則に違反してガイドをしたためだ」と老人。 「彼は英語が話せないのでガイドの説明はしていない。 単に私達を庭園に連れてきただけだ」と私。 「例え、説明はしていなくても道案内をしたから、それもガイドに当る。 それが当地の規則だ。 運転手は2,3ヶ月の営業停止になるだろう」と老人。 更に「私ならあなたのトラブルを解決できる。 此処にはここの解決方法がある」と老人。

私も何となく彼の言う意味に察しが付いた。 この老人の英語からそれなりの教養が感じられる。 ものごしから判断して、単なるチンピラではなさそうだ。 他に良い手段もないので、老人の話に乗ることにした。 「どうすれば良いのか」と私。 「運転手にはいくら払ったか」と老人。 「xxxディラハムだ(ディラハムは現地通貨、日本円では約5,000円)」と私。 「同じ金額を私に預ければ解決してあげる」と老人。 「分かった。 貴方にお金を渡すから宜しく頼む」と私。 「それではこちらへ来てほしい」と老人は私を人目に付かない建物の影に誘う。 私も付いて行き、物陰で老人にお金を渡す。

 

やがて老人はどこかへ姿を消したが、暫くすると先ほどの2人の警察官が運転手を連れて現れた。 先ほどと同様に2人の警官が運転手を羽交い絞めにし、運転手はそれに抵抗しながら戻ってきた。 運転手は顔に少し怪我をし、血が出ていた。 先ほどの老人がどこからか姿を現し、目立たないようにして警官にお金を渡した。 その途端、警官はニコニコ顔になり、運転手を解放した。 勿論、運転手の営業停止もなく、お咎めなしである。

運転手は無事すんだことで、私達に感謝してくれた。 「今日はこれで観光を終わりにするので、ホテルへ帰る」と告げると、「明日の朝、もう一度ホテルへ迎えに行く」と言う。 「もう結構だ」と断ったが、律儀な運転手で「是非、明日も来る」と言って聞かない。

 

一件落着はしたが、この件で妻はすっかり怖気づいてしまった。 この後、フェズへ行く予定であったが、一日でも早くモロッコから出国したいと言うので、フェズ行を変更してカサブランカへ行くことにした。

翌朝、ホテルのロビーへ降りていくと、運転手が待っていて、「駅まで送らせてほしい。 タクシー代はいらない」と言う。 断るのも悪いのでラバトの駅まで送ってもらって、分かれた。 本当に義理堅い良い男だったと思う。

 

列車でラバトからカサブランカへ出て、地元風のホテルに投宿した。 カサブランカはさすがに大都会である。 駅前には近代的なビルや世界チェーンのホテルも見られる。 タクシーで街を巡る。 モロッコ最大の新しくて立派なモスク、王宮、高級住宅街、百貨店、メディナ、外国人も利用している海水浴場(シーズンオフで人影まばら)、などを見て回った。 ここも日中は断食のため、人出は少なく、一般のレストランは総て閉店している。

日が暮れると一斉に人々が街に繰り出し、賑やかになる。 たまたま、カサブランカの駅前通りを歩いていると、ハイアットリージェンシーホテルが目に入ったので、立ち寄ってお茶を飲むことにした。 喫茶室が何だか古臭い雰囲気で、壁には古くなって変色したポスターが何枚か掛けられている。 お茶を頼むと、黒いマントに帽子を被ったウエイターが運んでくる。 暑苦しいのに何でこんな服装をしているのだろうか。

不思議に思っていると、突然日本人らしき観光客が十数人賑やかに入ってきた。 その会話で気が付いた。 ここは第2次世界大戦中のフランス反ナチス抵抗運動を描いた映画「カサブランカ」の撮影現場だったのだ。 ハンフリーボガードとイングリッドバーグマンの主演で知られている。 よく見れば、壁のポスターもその時のものであり、ウエイターの服装もその時のものである。 映画は見ていないが全くの偶然であった。

 

3月13日(日)

13:00 カサブランカ空港発 17:00 ローマ着

ローマ空港へ降り立ったが、入国できるだろうか。 それともパスポートの有効期限が3ヶ月を切っているので、規則どおり入国を拒否されるのだろうか。  取りあえず入国審査の列に並ぶ。 私と妻とどちらが先に審査官の所に行くべきか。 妻が先に審査を受けて入国拒否されれば、私だけ入国するわけにはいかないので、二人ともアウトとなる。 もし、私が先に審査を受けて入国し(私の有効期限はまだ十分ある)、妻が後から拒否されれば、人道的理由を建前にして、無理にでも入国を許可してもらえるかも知れない。 マドリッドで作成してもらった旅行日程証明書を妻に持たせて、この作戦で行くことにする。

 

入国審査は少々混雑していた。 並んで待っていると、私達の列とは離れた列で、何かトラブルでもあったのか、私達の列の審査官が席から出てきて、数人の別の審査官らと共にそちらの列の方へ行ってしまった。 審査は一時ストップ。 するとまた別の審査官が私達の列の前に来て、「審査手続きは受けずにそのまま入国しなさい」と言って、列の全員をノーチェックで入国させてしまった。 無事入国、助かった!!

 

ローマではテルミナ駅前のホテルに投宿。

翌日、ガイドのイタリア人おばさんに連れられて、外国人観光客と一緒にローマ市内を観光した。 サンピエトロ寺院、トレビの泉、パンテオン、スペイン階段、ナヴォーナ広場など、さすがにローマは2000年の歴史を感じさせる。

 

ホテルの近くを散歩していると、おっちゃんとおばちゃんが作っている小さなピザ屋さんがあった。 大阪のお好み焼き屋さんの雰囲気だったので入ってみた。 たたみ一畳ほどもある大きな鉄板で特大のピザを焼いている。 注文すると適当な大きさに四角く切り分けて売ってくれた。 何とも庶民的で、且つ、とても美味しい。

そんな平和な雰囲気の一方で、ホテル近辺では、ブロック毎の街角に小銃を手にした迷彩服の兵隊さんが何人も立っていた。 日本では全く見られない光景であった。

 

ポンペイ遺跡を見に、観光バスで出かけた。 こんな素晴らしい街が2000年も昔に存在していたとは信じられないほどである。 道路端に設けられた公共の上水道、車道と歩道(しかも車道より20センチほど高くしてある)、玄関ポーチにモザイクタイルで描かれた今にも飛び掛りそうな犬(「猛犬に注意」の表示)、部屋の壁に描かれた素晴らしい絵画、通りの両側に並ぶ商店街の跡、パンを焼くオーブン、立派な中庭のある大邸宅、等など、何と素晴らしいことか。

その後立ち寄ったナポリは、何の感動もなかった。 街全体が薄汚く、住宅の窓には洗濯物が一杯掛かっていた。 おまけに治安も良くないと言う。 「ナポリを見てから死ね (See Naples and die.)」と西洋の諺に残されているが、ローマ貴族の別荘地であった2000年前の面影は感じられなかった。

 

3月16日(水)

11:50 ローマ発 16:50 ベネチア着

ローマのテルミナ駅で朝食を取った後、米ドルを現地通貨に交換するため、駅構内の換金窓口に行った。 ドル札を差し出すと、電卓で計算して現地通貨のリラ札をくれた。 受取って確認するがどうも金額が少ない。 「金額が足りない」と言ってその場で全額を付き返した。 窓口のおっさんはこちらの顔をじっと見るので、こちらもぐっと見返す。 ごまかしがばれたと悟ったのか、もう一度電卓を叩き、今度は交換伝票を付けてリラ札をくれた。 今度は正しい金額だ。 日本で言えば東京駅の構内の銀行窓口に当るが、こんな場所でまさかインチキはないと思ったが、そうではないらしい。 しかし、私はこの種のインチキはアジア各地で経験しているので、引っ掛かることはない。 残念ながら「日本人観光客は甘い」と思われているような気がする。

 

ローマを発って列車でベネチアに向かう。 ベネチア市内は、列車は勿論自動車も一切乗り入れを禁止されている。 実際、中世のままの道路はせまく、大小の運河を跨ぐ太鼓橋が多くて、車は走りたくても走れない。 この規模の街で車が1台も走っていない街は、世界中でもここだけであろう。 細い路地と運河が街中を縦横に走っており、人は徒歩かボート(ゴンドラや水上バス)で行き来する。

過っての栄華を見せ付けるサンマルコ寺院、昔の風情を残すリアルト橋、古風な教会、などを観光しながら、住宅や小さな店が密集する街中を歩き回った。 サンマルコ広場には鳩と観光客が溢れていた。

 

街を歩いていて美味しそうなお菓子を売っていた店があったので、立ち寄って買った。 お金を渡してお菓子を受取り、お釣りを待っているが店の主人は気付かないふりをしている。 金額は少なくても誤魔化されるのは気にいらない。 催促するとやっと気付いたふりをして、つり銭を出してくる。 ここでも「日本人観光客は甘い」と思われてなめられている。 そんなことはあっても、この街は治安も良く、本当に楽しい街だ。

ボートに乗ってガラス細工で有名なムラーノ島へ出かけて見た。 島全体にガラス工房とガラス製品の店が点在する観光の島である。

 

ローマからベネチアのホテルを予約した際、満室で1泊しか取れなかった。 投宿して確認するとやはり翌日は満室で、連泊を断られた。 他のホテルに翌日の予約を入れるがどこも満室で1泊だけしか泊めてくれない。 止むを得ず1泊毎にホテルを移動した。

 

3月19日(土)

2階建ての観光列車に乗ってベネチアを発ち、ミラノに向かう。

帰国の日程が迫ってきたのでミラノでの観光はせず、列車を乗り継いでスイスへ向かった。 ミラノ発ジュネーブ行きの列車は立派な1等寝台国際列車で、コンパートメント式(昼間は6人用の座席)となっている。 空いていたので、コンパートメント1室を私達2人の専用にしてくれた。 真紅の座席やカーテンなどの内装が豪華で足元も広く、全体にゆったりとした作りになっている。 同室の客がいる方が旅は楽しいのに、残念だ。

 

ミラノを出た列車は、暫く平地を走り、やがてリゾート地として有名なコモ湖の横を通ってアルプスに向けて登って行く。 イタリアースイスの国境となるシンプロントンネルが近付くと、列車に入国審査官が乗り込んで来て、簡単な入国審査を受けた。 長い国際トンネルを抜けると景色が変わり、スイスに入った。 車窓からは、どんよりと曇った天候だが、アルプスの山々や畑、牧歌的な景色が見える。 山間を走って日が暮れたころ、ローザンヌに到着した。

 

駅の改札を出て、ホテルへ行くためタクシーに乗った。 若い運転手の他に助手席に年配の男性が乗っていた。 私達が後ろの席に乗ると、年配者が後ろを振り返って「息子が新米なので、私が一緒に乗っている。 怪しい者ではない」と説明してくれた。 何となくスイス人の律儀さが感じられた。

 

ホテルに着いてチェックインを済ませたが、部屋へ行く廊下が暗い。 省エネのため、必要な照明が必要な時間だけ点灯するようになっている。 ここでもスイス人の律儀さが感じられる。 到着時間が遅かったので、ホテルのレストランが閉っていた。 ホテルを出て食事のできる店を探したが、開いている店は少なく、街全体に明かりが少ない。 スイスでは夜は早く店じまいするのだろうか。

 

やっと一軒開いていたレストランを見つけて入る。 かなり大きな店で、中は明るく大勢の地元の人達で賑わっていた。 食事を食べて支払いをする段になり、クレジットカードを出すと、カードは駄目だと言う。 そう言われても先ほど着いたばかりで、現地のお金は持っていない。 この程度の規模の店では、今までカード(それもJCBではなくマスターカード)を拒否された経験はないので、大丈夫と思っていたのだが、胡散臭い客と思われたのだろうか、それとも、観光客が来ない地元の人達だけの店だったのか、何れにしても迂闊だった。

何とかカードで済ませてほしいと頼み込んだがどうしてもだめ。 さー困った、食い逃げになってしまう。 ポケットを探すと非常用に持っていた米ドルが少しあった。 これでどうかと言うとやっとOKしてくれた。 旅行をしていると、まれに現地通貨を切らす時があるので、そんな時のために、米ドルの少額紙幣を持ち歩いている。 何と言っても米ドル札は、世界中で最も広く受け入れてくれるお金である。 今回もこれが役に立った。 スイスで唯一度の、不愉快な思い出であった。

 

3月21日(月)

翌日、ローザンヌを発って列車でジュネーブへ向かった。 列車はレマン湖に沿って走り、程なくジュネーブに到着した。 小さいが清潔で気持ちの良い街だ。 レマン湖の大噴水が見える湖畔の公園を散歩し、駅前通りの店で土産物を少しばかり買った。

 

いよいよ最後の訪問国フランスへ入国する。 フランスはパスポートの有効残存期間が3ヶ月以上必要と規定している。 無事入国できるのだろうか、最後の難関だ。 ジュネーブからTGV(フランス新幹線)でパリへ向かう予定である。 ヨーロッパの鉄道は一般的に日本と較べて運賃が安い。 一等車に乗っても日本の普通料金と同じか少し安いように思う。 ここからTGVの一等車に乗ると、車内でフランス料理(夕食)が食べられる。 切符購入の際、食事も予約する。 切符は無事購入出来た。

 

この駅の構内で、スイスとフランスの出入国管理を同時に行っている。 乗車券とパスポートを見せてスイスを出国した。 いよいよ次はフランスの入国審査である。 駅の改札口を進行方向に少し長くしたような構造の入口を進むと、丁度改札口で駅員が立つ位置に、制服の入国審査官が一人座っている。 乗客は一人づつこの前に進む。 歳は50歳くらい、男性、恰幅が良く、口ひげをはやしている。

私が先にたち妻と一緒に彼の前に進み、私のパスポートを上にして2人分のパスポートを同時に手渡した。 おもむろに私のパスポートを開いてチェックし、続いて妻のパスポートを開く。 じーっと眺めていたが、やがてパスポートを閉じ、こちらを見た。

 

何と言われるか。 審査官氏、妻の顔を眺めてにっこり笑い、「マダーム」と一言、続いて私の顔を眺めて、「ムッシュ」と二言め、そして最後に「メルシー」と言って2冊のパスポートを返してくれた。 「入国審査合格」である。 あー、これでほっとした。 日本出国の時からずーっと気になっていた有効期間の問題が、これでクリアーできた。

 

16:28発 パリ行きTGVに乗り込む。 走り出して少しすると、日が暮れてきた。 列車のボーイが白いテーブルクロスを持ってきて私達の座席のテーブルに掛けてくれた。 料理が運ばれてきた。 豪華ではないがまずまずのフランス料理、小瓶のワインも付いている。 すっかり夜となったころパリに無事到着し、ホテルに投宿できた。

 

10年ほど前にヨーロッパ出張の際、パリと南仏モンペリエに立ち寄ったことがあったので、パリは2度目の訪問である。 ホテルから歩いてオペラ劇場の横を通り、ルーブル美術館へ行った。 ここは余りにも美術品が多く、各作品の有り難味が減ってしまう。 大理石のビーナス像、モナリザ、ナポレオンの戴冠式、など有名な作品だけを見る。 ビーナスの美しさは感じられるが、モナリザの良さは私には理解できない。

 

ルーブルの中で見たい絵が展示されている場所を教えて貰おうと思って、通りかかった中年の男性職員に英語で尋ねたが、職員氏は英語が理解できないふりをして教えてくれない。 諦めて別のところにいた若い女性職員に尋ねてみた。 彼女はきれいな発音の、分かり易い英語で、丁寧に教えてくれた。 これも自尊心が高いと言われるフランス人の特徴なのだろうか。

 レストランでも同じような経験をした。 席に座るとウエートレスがメニューを持ってきた。 フランス語では分からないので、英語のメニューを見せてほしいと頼むと、「ない」と一言いうだけで行ってしまった。 ヨーロッパの他の国では、大抵英語のメニューが用意されているのだが。 ここではフランス語の料理名から、何となくそれらしき料理を選んで注文するしかない。

出されたものを食べていると、偶々、そこへ日本人の若者が来て、「同席させてもらってもよろしいか」と聞くので、「どうぞ」と言って座ってもらった。 その男性も何を注文すればよいのか選択に困り、よく分からないままに何とか注文していた私達のところへやって来たのだ。 こんな点は観光国フランスと言われながら、不親切でサービス精神に欠けているように思う。

 

ルーブルの直ぐ近くの裁判所の構内に、あまり知られていないが、ステンドグラスが美しいサンシャペル礼拝堂がある。 小さな礼拝堂で、1階は特に変わったところはないが、狭くてらせん状になった階段を潜り抜けるようにして二階へ上がると、素晴らしいステンドグラスが見られる。 一階が現世二階が天国で、文字通り「天国に通じる道は狭い」と言うことか。

その礼拝堂から少しシャンゼリゼー通りの方へ行くと、オランジュリー美術館がある。 小さな美術館だが、モネを中心とした印象派の作品が沢山見られる。 特に「睡蓮の間」は圧巻で、凹面状にカーブした部屋の壁一面に描かれた巨大な「睡蓮」には、圧倒される感じがする。

 

そこから更にセーヌ河を渡って、古い鉄道の駅を改造したオルセー美術館に行く。 ルーブルよりここの方が狭いために、かえって見やすい感じがする。 2階の大時計の内側がレストランになっており、ここで休憩をかねて食事を取れるのが嬉しい。

セーヌ河の橋の上で風景画を書いていた街の絵描きさんから、お土産用に絵を買った。 季節はまだ3月の下旬であったが、寒さは感じられず、チュイルリー庭園やシャンゼリゼーの並木の新緑が目に沁みるほどに美しくなっていた。

ノートルダム寺院を見物し、シャンゼリゼー大通りのカフェでお茶を飲み、エッフェル塔まで散歩する。

 

3月24日(木)

14:40 パリを発って中継地フランクフルトで乗り換えて成田に向かう。 ところがパリ発の飛行機が遅れてフランクフルトに着いたため、成田行きの飛行機の乗り継ぎ時間が殆んどなくなってしまった。 急いで出発便のゲートへ行くと、出発ゲートが空港の反対側に変更になったと告げられた。 何ということか。

 

出発予定時刻はとっくに過ぎている。 慌てて空港内を端から端まで走って移動する。 やっと反対側のゲートにたどり着いた。 幸い同じルフトハンザ航空での乗り継ぎであったためか、他にも乗り継ぎ客がいたのか、予定の飛行機は私達を待ってくれていた。 何とか搭乗して座席に着いたところで、飛行機は遅れて飛び立った。 これで日本へ無事帰れることになった。 丁度1ヶ月、幸運にも寒波や雨に見舞われることもなく、地球一周の二人旅は終わった。

 

今回のような個人旅行に較べて、パッケージツアーは実に便利にできている。 何もかも添乗員が面倒を見てくれる。 地元の様子もよく心得ているので、効率よく観光スポットを案内してくれる。 所要日数内で見られる観光スポットの多さ、荷物運搬の便利さ、ホテルの手配、旅行費用、など、どれを取っても個人旅行は勝てない。 但し、もう少しここで時間を取ってゆっくり見たいとか、反対に、ここは興味がないのでさっさと次に移動したいと思っても、その自由が利かない不便さはあるが。

 

いろいろハプニングもあったが、長い間の希望が叶った、思い出深い旅であった。 自分が望むところで時間を取れることや、突然のハプニングとの遭遇、何が起きるか分からないスリルと緊張こそが、「本当の旅の醍醐味」とも言える。 パッケージツアーと個人旅行は、夫々一長一短があり、目的や好みに合わせて、両方を使い分けるのが、楽しい旅行ではなかろうか。