震災と戦災(阪神・淡路大震災)2001.5)(2007.8)

震度7 下から上へ突き上げられる感じ 電気ガス水道が止まり日常生活一変 戦争の混乱と比べれば今回の震災など大したことではない 大震災であったが限られた地域の一時的災害 震災は天災であるが戦災は人災 国民指導者層が避けるための努力をしなかっただけ どのようにして戦争が始められたのか 戦争体験者はそれを子孫に伝え決して同じ間違いを犯さないように努力

 

その地震は1995年(平成7年)1月17日(火)午前5時46分に発生した。 震源は淡路島北部深さ16km、規模はマグ二チュード7.3であった。

神戸・芦屋・西宮ならびに淡路島などの各地を中心に大きな被害をもたらした。 特に、神戸市中心部の市街地は壊滅状態に陥った。

地震による揺れは、阪神間及び淡路島の一部において震度7の揺れを観測し、戦後の日本国内で最大の震災となった。 被害の特徴は都市型の直下地震による災害である。

死者 : 6,434名 行方不明者 : 3名 負傷者 : 43,792名

 

成人の日を含む3連休が終わり、出勤のためそろそろ起きる時間で、いきなり大きな振動を感じて一度に目が覚めた。 今まで何度も地震は経験してきたが、この度の地震は過去に経験した揺れ方と全く異なる。  横にぐらぐらと揺れるのではなく、縦に、上下にと言ったほうが良いか、で揺さぶられた。 一階の和室に布団を敷いて寝ていたが、頭のすぐ後ろにあった整理ダンスが私の頭の右横30センチ程のところに倒れて来た。 タンスの角が畳に鋭い傷跡を付け、飾り棚のガラス戸が粉々に割れて飛び散った。いつもはもう少し部屋の中央に寝ていたが、その日は偶然少し入口よりに布団を敷いていたため、ほんの少しのところでタンスの直撃を免れた。 いつもの位置で寝ていたら、死んでいたかも知れない。

 

強烈なゆれが数十秒続いたろうか。 その後も数分おきに何度も大きな余震が続いたが、家の強度には自信があったので、家内や娘を部屋の真ん中に集め、しばらく余震が収まるのを待った。 何回かの強烈な揺れが治まった後、家の中をみると、冷蔵庫が移動して中身が床に散らばっていた。 ピアノは足を受ける台から外れて移動していた。 食器棚からは中の器類が床に飛び散っていた。 屋外へ出て、我が家を見ると、屋根瓦が総て移動して3分の1程は庭に落下していた。 壁にはあちこちにひび割れが入り、基礎のコンクリートにもひび割れが生じていた。 後日の保険会社の判定では「半壊」であった。 建築後約20年で、まだまだこの家に住むつもりであったが、修理代が高く、結局建替えることとなってしまった。 (同年3月建築会社と契約、7月建物撤去、11月完成・引越し)

 

私が子供の頃にも何度か地震を経験していたが、その後は余り大きな地震はなかったように思う。 大地震があるとすれば、関東地方か中部地方と言うのが、大方の予想であり、関西でこんな大地震が発生するとは、誰も予想していなかった。

 

  それから後の3ヶ月程の期間、激震地、芦屋、神戸、淡路北部の惨状は新聞テレビの報道で見るとおりであったが、私自身はそれほど大きなショックを受けることはなかった。  それは第2次世界大戦とその後の惨状を子供の時代に経験してきたからだと思う。  あの時の混乱と比べれば今回の震災など大したことではないのである。

 

  神戸や芦屋では風呂に入いれないとか、食料が満足に手に入らないとか、交通機関が途絶しているとか、いろいろ不満はあったが、何とかして隣町の大阪へ出れば地震など全く関係なく、いつも通りの賑わいがあったのだから。  風呂に入れないことなど、若い頃に山へ行き、山中でキャンプをしたり、山小屋に泊まっていた時のことを思えば全く苦痛など感じなかった。 山中では1週間くらい風呂に入れないことは珍しいことではない。  世界中では一生涯風呂に入らない人が何億人もいる。  現在の日本では、余りにも便利で贅沢な日常生活に慣れ親しんでしまったために、一寸した便利さの欠如で大騒ぎをしてしまうことになる。  時には不便だった往時を思い出すのも良い事かもしれない。  徳川家康は晩年自分の家族に年に1度は野戦時の粗末な食事を食べさせて、貧しかった時の事を思い出させたと言う。  その気持ちが良く理解できる思いがする。   

 

地震の被害は確かに甚大であったが、その状況は他の記録に譲るとして、ここでは地震と戦争の被害を比較して見たい。

 

このような大震災ではあったが、震源地から50km以上離れた町では、殆んど被害はなく、平常とあまり変わらない日常生活が続いていた。 電気、ガス、水道なども一旦は総て停止したが、その後数日から数週間で利用可能となった。

大震災ではあったが、客観的に、冷静に見れば、日本のごく限られた地域の一時的な災害であった。 これらの点が先の戦争(第二次世界大戦)と全く異なる点である。

 

戦時中から戦後にかけては、数年間におよぶ長期間、日本中が食料不足や停電に見舞われた。 昭和19年から20年8月にかけて、大都市では連日の空爆に見舞われた。 戦争による死者は日本人だけでも300万人と言われており、日本人以外の死者は、その何倍にも上る。 人的・物的被害は今回の地震の比ではなく、桁違いに大きい。

 

更にもっともっと大切なことは、震災は人間の知恵では避けられない(多少の減災は可能である)が、戦災は人間の知恵で避けることも可能であるという点である。 言い換えれば、震災は天災であるが、戦災は人災である。

 

人によっては、先の戦争は当時の世界情勢から見て、避け難いものであったと言うが、決してそうではなく、「戦争の思い出」にも記したように、当時の国民(特に指導者層)が、避けるための努力をしなかった(足りなかった)だけである。

それだけに我々は、どのようにして戦争が始められたのか、何がその直接・間接の原因であったのか、如何にすれば避け得たのか、などなど、避けるべき手段をもっともっと真剣に考える必要がある。 今は戦争被害の経験が薄らぎ、何となく過去のこととして忘れてしまおうとする雰囲気があるように思われる。 特にその戦争を直接体験した者はその経験を子孫に伝え、決して同じ間違いを犯さないように努力しなければならない。