初めての海外出張

台湾へ出張 パスポートは国連の発行 誰々さんカンペイ(乾杯) 1ドルが360円

 

台湾政府から新造船所建設に関する提案をして欲しいとの要望が、我が社に対して寄せられ、1969年10月、約2週間の予定で台湾へ出張することとなった。 当時、私は工場建設および保全の仕事を担当していたことから、造船、機械、土木、電気、経理、で編成する5人のチームの一員として、台湾へ出かけた(私は電気担当)。 メンバーの年齢は40歳から50歳で、33歳の私が最年少であった。

 

現在と違い未だ日本が外貨不足の時代であったため、一般の観光旅行は認められておらず、海外へ出ることがまだ珍しい時代であった。 「憧れのハワイ航路」と言う歌があった頃で、文字通り海外は憧れの的であった。 出張に当っては、会社の上司・同僚や家族が大阪空港まで来てくれ、万歳をして見送ってくれた。

 

台北空港へ着き、入国審査を待っていると、我が社のOBが空港へ出迎えに来てくれていて、入管審査場の中まで入ってきて、私達一行を案内してくれた。 何とこのOBは、会社を定年退職後、国連職員となり台湾に滞在していた。 そのため、パスポートも日本政府発行のものではなく国連の発行であり、このパスポートの威力で空港でもどこでも、入場OKなのだそうだ。

 

台北で台湾政府の関係者と打合せをした後、キールン(基雄)造船所を視察したり、台湾の工業水準を知るため、近郊の工場などを見て回った。 その後、国内航空会社の飛行機で、造船所建設予定地であるカオシュン(高雄)へ向かった。

 

台湾政府の担当者は、殆んどが台湾海軍の将校達(大尉から少将のレベル)であったが、行く先々でその土地の関係者の人達が、我々一行のために歓迎会を開いてくれた。 2回に1回は、我々もお返しの一席を持たねばならず、2週間の滞在期間中に10回以上も中華料理の宴席を持つことになった。 義理固く人の良い中国人ばかりで、時間がないからといって断ろうとしても受け付けてくれず、時には1日に昼と夜の2回の宴席となってしまうこともあった。 しかも、よく知られているように、宴席では一人で酒を口にすることは失礼とされており、必ず「誰々さん、カンペイ(乾杯)」といって、相手を名指しにしながら飲むため、酒に強くない者にとっては、宴席そのものが重労働である。

 

しかし、これらの席で出された料理は、何れも大変美味で豪華なものであった。 私の記憶では、後年、北京の天安門広場の近くにある中国大飯店の宴席で食べた中華料理よりも、味も内容もずっと上であったように思う。 しかし、いくら美味しくても、油濃い中国料理が続くと、さすがに辟易し、単純な味のお粥が特に美味しく感じられる。 噂では、「竜虎鳳の料理」と言う高級料理があると聞いた(竜は蛇、虎は猫、鳳は鶏だと茶化す人もいるが)。 流石にそれはなかったが、鳩の頭の姿焼きが、皿の真ん中に乗って、こちらを見ている料理は、後にも先にもその時だけである。

 

高雄からの帰路は、高雄発台北行きの観光列車に乗った。 車内でボーイがサービスしてくれるお茶が少々変わっていて、大きなガラスのコップに、長さ20センチ、巾5センチ程もある大きな一枚の茶葉を入れ、これにお湯を注いでくれる。 少し待って飲むと美味しいお茶の味がでていた。 飲み干して暫くするとボーイが回ってきて、お湯を継ぎ足してくれる。

 

その当時は1ドルが360円のレートであり、まだまだ外国製品は貴重で珍しい時代であったため、海外製のお土産なら何でも喜ばれた。 特にタバコ ウイスキー 香水の3種の土産は、国内で入手が困難である上、輸入関税が高かったため、免税品の土産は特に値打ちがあった。

 

そこで先の国連職員のOB氏が、ここでも貴重な存在であった。 OB氏は自分専用のフランス製の車で、私達を米軍のPX(軍人専用の売店、特別価格で買い物ができる)へ連れて行ってくれた。 ここでも国連発行のパスポートが効力を発揮して、デューティーフリーショップよりも更に安い価格で買い物ができた。

 

台北で見た故宮博物院の収蔵品は実に立派ある。 蒋介石が中国本土から持ってきたと聞いたが、流石に中国屈指の美術品が揃っている。 残念ながら後年見た、北京の故宮博物院の内容とは、雲泥の差があるのは当然であろう。

 

無事現地調査と打合せを終え、帰国した。 その後プロジェクトの提案書を作成して、台湾政府に提出したが、残念ながらその後の契約は不成立となり、計画は立ち消えとなってしまった。 しかし、この時の経験が次の計画(インドの造船所)に繋がり、短期間ではあったが、良い経験となった。