家を建てる2000.5)

記念すべき一軒目の家 不動産の値段 見晴らしが素晴らしい一区画 土地の周囲の写真 日本列島大改造の不動産ブーム 異常な物価の値上がり 2軒目の家 第一次のオイルショック 神戸・淡路大震災 懐かしい我が家 3軒目の家

 

若い時から山歩きが好きで、近畿、中部、北陸、四国などの山へ行った。中でも六甲山はすぐ近くでもあったことから、何度となく歩きまわった。 昭和40年頃であったと思うが、神戸電鉄が沿線に宅地開発を行い一般に売り出した。 その頃は西宮に住んでいたので阪神間に住みたかったのだが、その頃はもう土地の値段が高く、自宅付近(JRの甲子園口から歩いて10分程度)では坪当り6万円程度になっていたので手が出ない。 私の給料では3ヶ月でやっと1坪買える程度だったと思う。 そこで神戸電鉄の「山の街駅」近くで売り出された土地を買う事にした。 55坪ほどの広さで坪単価は1万2千円であったから、総額で60数万円である。

まだ独身だったが、将来結婚してもここからなら通勤可能(会社まで約50分)なので、ここに決めた。 駅の名のとおり周囲を山に囲まれた静かな環境であった。 昭和42年に結婚しここに家を建てることにした。 何冊かの本を買って、間取りの取り方、建材の選択の仕方、室内配色の組み合わせ方、季節毎の太陽の出る角度と方向、風の吹き方、など家に関する知識を集めた。 自分で間取りを書き、先輩の建築士にお願いして建築図面を作成してもらい、絵の得意な友人にたのんで色を付けた家の外観図を書いてもらい、知り合いの工務店に依頼して見積もりを取り、会社から建築資金の一部を借り、京都の城南宮で家内安全のお払いを受けて、ようやく建築工事に着手した。

77平方メートルの木造二階建てで建築費は160万円程度であった。 これが私の建てた記念すべき一軒目の家である。 この土地は前面の道路から約3メートル程高くなっており道路に面して法(のり 傾斜)があったので、ここに掘り込み式のガレージと二段になった石垣を作ることにした。 これで庭も広くなったし、見栄えもぐっと良くなった。 工事費は約30万円だったと思う。 車はまだ高く維持費もかかるのでまだ買わなかったが、ガレージは石垣を作る時に同時に作っておかないと後からでは2度手間になり高くつくので、この際先行投資をしておいた。 その内必ず車が必要になる時がくると予想していたから。

この家には昭和46年まで住んだ。 その間に山の街も開発が進み、住人も増えて少々騒々しくなってきた。 出張も度々あり、山の街は少々不便を感じる様になってきたので、阪神間に手頃な土地か家がないかと、休みのたびに出かけて不動産屋に物件を案内してもらった。 一度は阪急電鉄門戸厄神駅の近くに気に入った家が見つかったことがあったが、1日の差で売れてしまい残念ながら買えなかった。 なかなか予算と好みが一致する物件が見当たらなかったが、不動産を観る目は、この時の経験が後々ずいぶん役に立ったと思う。 不動産の値段と言うものは実に上手く付けられているもので、値段が少しでも違えばそれなりに何か良い点、悪い点があるものだ。 しかし、人によっては、その欠点が欠点とはならず、逆に長所になることさえある。 例えば広い通りから道一本奥へ入った土地は、一般的には広い通りに面した土地より少し安く値付けされているわけだが、住宅として使うなら静かで良いし、子供も安心して道路で遊べたりして、必ずしも悪くはないものだ。

丁度その頃、同じ神戸電鉄の沿線で一駅神戸よりの北鈴蘭台駅の西側に住友生命系の建設会社が団地を開発していたので、ここへ行って見た。 もう殆ど売れて数区画残っているだけだった。 その内一番高台にあって、見晴らしが素晴らしい一区画があった。 360度に近い展望で、台風の時が少し心配ではあったが、見晴らしの良さを採ってここを買うことにした。 ○○○万円ほどであったと思う。 お金は何とか預金が出来ていたので、全額をはたけば借金せずに買う事ができた。

丁度その時期、仕事でインドへ一年間出張することとなった。 インドから帰ってからそれまで住んでいた家を売って新しい土地に、しっかりした風にも強い家を建てようと考えていた。 インド出張中に家内から手紙が入り、芦屋で少し高額ではあるが良い土地があると言う知らせが届いた。 出張中のこととて帰るわけにもいかず(当時は今のように海外との往来が簡単ではなかった)、その土地の周囲の写真を撮って送らせることにした。 写真で見たところ悪くはなさそうだし、周辺の状況はおおよそ検討が付いたので思い切ってここを買う事に決めた。 広さは250平方メートル弱で約○○○○万円の物件だ。

今から見れば安い物件だが、私にとっては大金である。 そこでインドと日本の間を何度も手紙でやり取りしながら、それまで住んでいた家と先般購入した土地の両方を、家内に言って売る事にした。 これがなかなかの大仕事であった。 なにしろ主人の自分が出張でいない間に家も土地も売ってしまうのだから大変であった。 私の方からも、会社の同僚や関係先に手紙を書いたりして協力は依頼したが、家内に取っては初めての経験でもあり大仕事であった。 幸い世間が日本列島大改造の不動産ブームの時であったことが幸いして、家も土地も夫々○○○○万円弱の良い値段で売る事ができ、数字の上ではかなりの儲けとなった。 家の方は土地も含めてかけたお金の3倍以上になり、土地の方は1年そこそこの間に1.5倍に値上がりしていたことになる。

出張中に家内が引っ越しも終わらせてくれており、昭和47年11月にインドから帰国した時には芦屋駅近くの文化アパートに住むことになっていた。 狭いアパートに引っ越し荷物が積まれたままで、新居ができるまで1年近く暮らす事になった。 それでも新しい土地に近く、便利な所でもあったので苦労は感じなかった。 新しい土地は少し傾斜があったので、石垣を積み、ガレージを掘り込む造成工事をする必要があった。 この工事でご近所や市役所と一悶着あったが、それでも自分で造成工事の業者選択や手続きも行ったので結果的には予算を安く納める(○○○万円程度だったと思う)ことができたし、何よりも貴重な経験になった。 何でも出来る限り自分の手で努力してみるものだ。 総て業者まかせにすれば、楽ではあるが必ず高いものになるし、得難い苦労も体験できない。

再び間取りを決め、知り合いの工務店に見積もりを依頼したが、折りからの日本列島改造ブームによる異常な物価の値上がりが始まりかけていた時であったため、セメントが手に入らないとか、材木が日に日に値上がりしているので大工工事が見積もれず、先に木材を購入してから見積もりを出させて欲しいと工務店が言ってきたりとか、いろいろとトラブルはあったが何とか完成させることができた。 昭和48年の夏であった。 木造2階建て120平方メートルの家で約○○○万円でできた。 もう1年土地の購入や建築工事の開始が遅れていたら50%近く値上がりしていた事であろう。 なにしろ、とてつもないスピードで物価(特に土地や建築費)が値上がりした時期であったから。

以前の家と土地を売ったお金で新しい土地を買い、家は会社からの貸し金と金融公庫の住宅ローンで建てた。 これが2軒目の家である。 完成直後の昭和48年12月には第一次のオイルショックが起きたのだから、本当にラッキーなタイミングであった。

この家には平成7年の神戸・淡路大震災の時まで約23年間住んだ。 懐かしい我が家であった。 地震がなかったなら、まだ5年や10年は住んでいただろう。 地震では2階の屋根瓦が全部移動し、軒先に近い2,3割の瓦は地上に落ちて割れた。 外壁のモルタルには幾筋ものクラックが入った。 基礎のコンクリートにも地盤が盛土の部分でひび割れが生じた。 柱はしっかりしていたので、倒壊する心配は全く無く、修理をすればまだ十分に使える状態であったが、修理に600万円かかると言う見積もりが出たので建て替える決心をした。 撤去費に70万円かかったが、これは震災の特例で市が全額負担してくれた。

平成7年1月に地震があり、3月には建て替えの契約を交わした。 今回は街の工務店ではなく、大手の建築会社に依頼した。 地元の工務店は地震の特需で大忙しの状況にあり、工期的にも費用的にも当方に不利な条件であった。 地震に懲りて基礎を強化するため、直径40センチの杭(土質改良杭)を3〜6メートル下の強度のある地盤まで32本も打ち込んだ。 屋根を軽くし、125平方メートルの木造2階建、ツーバイフォー工法の家である。 これが3軒目の家である。 断熱材を通常の1.5倍の厚さにしてもらったのと気密性の向上で、夏は涼しく冬は暖かい快適な住み心地の家になった。

出来る事ならもう一軒別の場所に建てたいと言う願望は持っているが、どうなることか自分でもよく分からない。

1万円の服を買うにも何軒かの店をまわる。3千円の夕食でも2、3軒覗いて比較する。 増してや数千万円の家、慎重に検討を。

10年、20年先の家族の状況に合わせて家を計画せよ。