インドでの暮らし その1
大国インド
2000/6)

最新鋭インド国営造船所 南インド コチン 葬送曲 荷物運び達 チップを要求 アショ−カホテル 運輸大臣部屋 独立記念日 タージマハール 国内工場視察旅行

日本人とインドとの関係は、アメリカやヨーロッパ諸国、アジアの国々と比べてかなり疎遠なものがある。 観光旅行者も少ない。 そんなインドの、観光旅行では決して見聞できない内面を記してみたい。

1969年の1月に初めてインドへ行った。  M重工業がインド政府の依頼を受け最新鋭のインド国営第2造船所を南インド、ケララ州コチン市に建設するプロジェクトの技術支援を行うこととなったためだ。(第1造船所はインド中東部ビシャガパトナム市にあるが、かなり旧式)以後この仕事の関連で、1970年から1975年にかけて都合3回に渡って訪印し、延べ2年を越える期間、彼の地で生活することになる。

 M重工業は神戸造船所内にこの業務を担当するため、所内の関係部門から専門技術者を選抜して新しいプロジェクトチームを編成した。 私は、30代半ばで、プロジェクトチームでは最年少であった。専門が電気であったため、新しい造船所の電気設備全般の計画を担当していた。

第1回目の渡印時、インド政府支給の航空券使用の為、エア−インデイア機で東京発ニュ−デリ−行きの飛行機に乗った。 エア−インデイア機の機内ではインド音楽のBGMが流されている。 この音楽が独特のメロデイ−で、低くて何となく物悲しく、葬送曲を連想して、気分が悪くなると言う人もいる。 機内では線香に似た匂いのする香が炊かれ、壁にはインド独特の絵が描かれているので、飛行機に乗った時から早くも「インドへ来た」と言う感じにされてしまう。

香港、バンコックで一時停止した後、ニュ−デリ−に到着した。 ニュ−デリ−の飛行場の名称がダムダム飛行場と言い、いかにもインドと言う感じがした。 入国手続きを済ませたところにM重工のニュ−デリ−駐在員が出迎えに来てくれていた。 此処はまだ税関を通過していない所だから、一般人は入って来れないはずだが、日頃から税関の役人とコネを付け自由に出入り出来る様になっているようだ。

駐在員の手助けを得て荷物を受取り、無事に税関の荷物検査を通って一歩薄暗い外へ出た途端、ワっと人垣に取り囲まれ何事が起きたのかとびっくりさせられた。 我々の手荷物をすぐ近くの車まで運ぶために、子供や若者の荷物運び達が集まってきたのだ。 アっと言う間に荷物を車のトランクへ運び込み、全員が手を差し出してチップを要求する。 実際に荷物を運んだ者も一寸荷物に手を触れただけの者も、全く荷物に手も触れなかった者も、ともかく全員がチップを要求して手を出す。 厳しい生存競争だ、 その間我々日本から来た連中は全員呆気に取られていたが、手慣れた駐在員は、「お前と、お前と、お前とは、荷物を運んだからチップをやる。 お前と、お前とは運んでいないからダメ」と、てきぱきと裁く。

それでもチップにありつけなかった連中が「自分は確かに荷物を運んだからチップをよこせ」と、しつこく粘る。 中には車の窓ガラスをコツコツと叩いてチップを要求する者までいる。 それを適当に追っ払いながら車を出発させる。 この後こんな経験を何度もすることになる。 しかし、これ以降我々は荷物に一切手を触れることなくどこでも運び屋が親切に荷物を運んでくれることになる。

 彼の地には約40日間滞在した。 前半はニユ−デリ−でインド政府運輸省のプロジェクト担当官と技術援助契約のネゴを行い、後半は担当官の案内でインド国内の工業レベルの調査と、新しい造船所建設予定地の視察のため、インド国内を一周することとなった。

 ニユ−デリ−では、アショ−カ ホテルと言う国営ホテルに宿泊した。 このホテルの洗面室のカウンタ−は厚さ30ミリ程の白大理石の一枚板で出来ていたり、水道の蛇口が水と湯の他にDrinking Water と書かれた3つ目のがあっりして、当時の日本のホテルとの違いに驚かされた(通常インドでは水道水は飲めない。 生水を飲むと下痢をする)。 

 翌日、政府の関係者に挨拶に行くこととなり、日印商事の国塚社長と言う大ベテランのインド通の人に案内されて運輸省へ行った。 どのレベルの人に会うのかと思ったら、先ず局長の部屋に行き、次には運輸大臣の部屋に行ったのには驚かされた。 政府側の案内や了解もなく、同氏だけの案内でどの部屋へでもどんどん入っていくのだから、日本ではとても考えられないことだ。 たまたま大臣は国会開会中のため不在で、国会議事堂内の大臣室にいるはずだと言うことで、その足で運輸省の建物から程近い国会議事堂へ出向いた。 例によって、国塚社長の案内で大臣室へ入っていくと、がっちりとした体躯の大臣(ラジ バハドウ−ル氏)に会うことが出来た。 大臣はゆっくりとした喋り方をする落ちついた感じの人で、国塚氏が我々を一人一人紹介すると、良く来てくれたと言って歓迎してくれた。 すぐに自分で給仕(ピヨンと呼ばれる雑用係)を呼んで紅茶とビスケットを出してくれた。 熱い紅茶を飲みビスケットを食べながら暫しの間歓談して退出した。

 我々がインドを訪れたのは1月であったが、インド(ニユ−デリ−)の1月は観光シ−ズンとしても最高の季節である。 日本で言えば5月の気候に当たると思う。気温は暑くもなく、寒くもなし。 湿気はなくてカラっとしている。 町中に花が咲き、大樹の下にはリスが遊んでいる。 朝晩は少し冷え、コ−トを着ている人も見かけたが、日中はとても気持ちが良い。

1月25日は第2次対戦後にインドがイギリスから独立を果たした独立記念日であり、国家の祝日となっている。 この日を祝って首都のニュ−デリ−の中心部では、立派な官庁の建物の輪郭が何万個とも知れぬ電球で飾られる。 日が暮れると一斉に電球が点灯され、壮麗な建物の輪郭が夜空に浮かび上がる。 何とも綺麗な眺めである。 神戸では最近になってルミナリエと称して、一部の道路に電色を施しているが、その広さにおいては比較にならない規模であり、さすがに大国インドである。

 同日には国会議事堂前の大通りで祝賀パレ−ドが繰り広げられる。 通りの両側には見物人のための階段状の椅子席が架設された。 我々も招待状を貰って見物に出かけた。

 軍隊、各州、各種団体などを代表するグル−プがそれぞれ特長を出した衣装、装備、踊り、などを交えながら、次々と繰り出してくる。 最初は珍しいので面白そうなグル−プが通る毎に写真を取っていたが、余りにも沢山のグル−プが何時果てるともなく、延々と我々の前を通過していくので、写真を写すのを諦めてしまった。 ここでもインドの大きさ、多様さを見せつけられた思いがした。

 さて、インド政府運輸省の代表者とわれわれM重工との技術援助に関する交渉は、連日運輸省の会議室で続けられた。 M重工としても造船所建設の技術援助という内容では初めての契約であり、後で思わぬオブリゲ−ションを負わされることを警戒して、本社から同行した弁護士を入れて、契約文書の一言一句を明確にしながら進められたため、約2週間の期間を費やしたが、無事契約内容を纏めることができた。

その間の休日を利用して、一日タージマハールを見学した。 タージマハールはニュ−デリ−の南方にあり、ムガ−ル王朝のシャ−ジャハンと言う王が、若くして死んだ最愛の王妃のために、国家財政を傾けて建造させた総大理石造りの廟である。

その素晴らしさは到底筆舌に尽くしがたいものであるが、その一部を紹介する。 大理石の壮大な門を潜ると、奥前方から入口に向かって真っ直ぐな水の流れ(カスケード)があり、その両側には木が植えられ、奥へと繋がる参道が配置されている。 そのずっと奥には、四角い基壇の上に、回教のモスクに似たねぎ坊主型の屋根をのせた主建造物(本堂)がある。その周囲に4本の尖塔が建てられている。 それらの総てが種々の装飾を施した純白の大理石で作られている。

本堂の壁や床を構成する一つ一つの白大理石は、たたみ一畳の大きさがある(厚さは約5センチ)。 その一枚一枚には無数の色石を埋め込み、見事な幾何学模様や花模様が描かれていたり、蓮の花や唐草模様が浮き彫りにされていたり、或いは又、花模様が透かし彫りにされている。

外は暑くても、本堂の中に入るとひんやりと涼しい。 窓ガラスの代わりに嵌められた透かし彫りの大理石板を通して、涼しい風と柔らかい光が差し込むようにできている。 床も色石を埋め込んだ模様が施させており、別世界に入り込んだような雰囲気になる。 何とも素晴らしいデザインの建築物である。 日本の美智子皇后も皇太子妃時代にここを訪問され、その素晴らしさに思わず「私にもこんなお寺を建ててほしいわ」とささやいたとか、そばの皇太子は聞こえなかった振りをした、とか言う話である(私達を案内してくれた国塚社長は、皇太子夫妻の案内も勤めた)。

約2週間の期間を費やした技術協力契約交渉が纏まった後、我々はインドの工業水準を評価するため、約2週間の国内工場視察旅行に出た。 主要な工場が国内に散らばっているため、飛行機で広い国内を一周することとなった。 飛行機のチケットを渡されたが、ステイタスは総てオ−プン(予約未済)である。 これで本当にスケジュ−ル通りの旅行ができるのだろうか。

以下インドでの暮らしその2に続く