インドでの暮らし その11

帰国―ベナレスからネパールのカトマンズへ2006.5)

初体験が一杯詰まった1年間 聖地ベナレス 聖なる河に流されるのが最高の幸せ 体中に死者の灰を塗った僧侶が行く サルナート(鹿野園) 初転法輪の聖地 ネパールのカトマンズ 少女の生き神様 エベレスト ヒマラヤの山懐ポカラ コックピットから見るヒマラヤ山脈 地元の人達や羊の群れが滑走路を横断 素晴らしい舟遊び

 

1回目の1年間の滞在が無事終了し、家族が待つ日本に1年ぶりに帰国することとなった。 その日が近付くと造船所長主催で送別会を開いてくれた。 造船所の幹部職員100人程が出席してくれた中で、私達第1陣のチームの内、帰国する4名が一人々々お別れの挨拶をした。 1年間の思い出と共に、感情が一気に込み上げてきて、思わず涙が出そうになった。

何と長く、また短く、初体験が一杯詰まった1年間であったことだろう。 こんな1年間は私の生涯の内でも2度とない、貴重で有益な1年間であったと思う。 後になって振り返っても、この1年間のインドでの体験(修行とも言える)は、少なからずその後の人生観を、良い意味で変えるものであったと思う。 辛いこともあったが、楽しいことも同じだけ、否、それ以上あり、30歳代でこのような経験をさせてもらったことに今も感謝している。

 

余談になるが、その後、我が社はインド政府(国営船会社)から6隻の大型貨物船を受注したが、この技術協力の成功が一つの要因となっている。

 

出発当日、1年間滞在したホテルのオーナーが大きな顧客台帳を持ってきて、ここに何か残す言葉を書いてくれと言ってきた。 「1年間無事滞在させてもらったことに心から感謝する」とお世辞抜きで記載した。 出発時にはオーナーの他、マネジャーやよく世話をしてくれたボーイ達まで、総出で見送ってくれた。 空港へは造船所の幹部の何人かがわざわざ見送りに来てくれた。

少々遅れて飛び立った飛行機がコーチンの上空を通過するとき、根の下に通いなれた小さなゴルフ場が見えた。 懐かしいコーチンよ、さようなら。 思わず目頭が熱くなった。

 

私達はコーチンを発った後、帰途インド北東部の聖地ベナレス(現地名バナラシ)とネパールを経由し、更に香港にも立ち寄って大阪へ帰ることとしていた。

ベナレスはガンジス河の岸にあるヒンズー教の聖地であり、同時に外国人にとっては観光地でもある。 ここでは旅行会社のパンフレットやテレビの観光映像でもよく紹介されているように、川岸では死体を焼いた灰がガンジス河へ流される。 ヒンズー教徒にとってはここで死を迎え、火葬されて聖なる河に流されるのが最高の幸せであると言われ、死期を迎えた多くの人達が、ここで死を迎えるためにインド各地からやってくる。

 

幾体もの死体は夫々木製の簡単な担架で運ばれてきて、河の流れに沿って長く石の階段状に造られた堤防の上に横たえられる。 その上に薪が置かれて、火が付けられる。 薪が燃え尽きると、死体は灰となって河に流される。

河では大勢の男女が裸で或いはサリーをまとって河に入り、ある人は頭から水をかぶり、ある人は口をゆすぎ、ある人は沐浴をしている。 その横では私達のような外国人観光客が小型のボートに乗って、河の中から見物している。

川岸の町の通りでは人で込み合う雑踏の中を、牛がゆったりと歩き、死体を乗せた担架が通り、野生の猿が走り、体中に死者の灰を塗り、予備の灰(塗った灰がとれるとまた塗り直す)を入れた壺を下げた僧侶(行者か)が歩いて行く。 私達も鈍感になって一緒に雑踏の中を進む。

 

この街の近くには、仏教(釈迦)の4大聖地(誕生地、悟りを開いた地、初転法輪の地、入滅の地)のサルナート(鹿野園 ろくやおん)がある。 お釈迦様は菩提樹の木の下で悟りを開いた後、この地に来られ、ここで最初のお説教をされた(初転法輪 初めて法輪を転された)と言われている。 ここにはあまり大きくはない簡素なお寺があり、壁にはお釈迦様の物語が何枚もの絵に描かれていた。

 

私達はベナレス空港からインドを出国し、ネパールのカトマンズ空港へ向かった。 カトマンズには多くの古いお寺や町並みが残されている。 少女の生き神様が住むお寺、歓喜仏が沢山飾られたお寺、伽藍の上に巨大な目玉の画かれた奇怪なお寺、などなど、インドとはまた違った別世界である。

 

日本人が経営するレストランも当時1軒できており、町を走る車は殆ど日本製であった。 

タクシーの運転手がエベレストが見られる場所があるから是非見に行こうと言うので、半信半疑で行って見た。 カトマンズの街は盆地のように周りを山に囲まれており、その峠まで走ると、運転手がここからからエベレストが見えるから降りろと言う。 運転手の指指す方向を見ると、遥か彼方に連なるヒマラヤ山脈の峰々の中に、少しだけ高く突き出た峰があり、それがエベレストだと言う。 信じるしかない。 以前、雨上がりの北アルプス(奥穂高岳)の頂上から富士山を見たことがあるが、何となく同じように感じられた。 カトマンズからはヒマラヤ山脈遊覧飛行もあるので、これに乗ればもっと近くから見ることができる。

 

 翌日、カトマンズから西方、ヒマラヤの山懐ポカラへ飛ぶ。 飛行機は小型の双発機(アブロと呼ぶインド製ジェットプロップ機)で、ヒマラヤ山脈に沿って約1時間西に飛ぶ。 これが実に素晴らしいヒマラヤ山脈遊覧飛行となっている。 飛行機の高度とヒマラヤ山脈の頂がほぼ同じ高さで、窓からは万年雪を頂いて白銀色に輝く峰々が直ぐ真横に見られる。

 その時、一人のアメリカ人のおばあちゃんがコックピットへ入って行くのが見えた。 「えっ、コックピットへ入れてくれるの」、私も続いてドアを開けるとパイロットが中へ入れてくれた。 飛行機のコックピットから見るヒマラヤ山脈の眺めは何と素晴らしいことか。 まだ、テロなど殆んど聞かれなかった時なので入れてくれたのだが、今では無理であろう。

 

やがて山の中の平坦地にポカラの飛行場が見えてきた。 飛行機は舗装されていない滑走路に土煙をあげて、大きくバウンドしながら着陸した。 飛行機には何度も乗ったが、舗装なしの滑走路は後にも先にもこの時一度きりである。

ポカラ飛行場の建物は、ごく普通の民家風の二階建ての木造住宅が1棟だけ、その屋上にサイレンとアンテナ、室内に置かれた木製机の上に小型無線機が2台あるのみ。 極めて簡素な飛行場であった。 飛行機は午前中に一便、カトマンズからポカラに飛んできて、その飛行機がそのままカトマンズに引き返す。 1日にカトマンズ〜ポカラの往復1便のみである。 飛行機が発着する時以外は、地元の人達や羊の群れが滑走路を横断している。 飛行機が見えてくるとサイレンが鳴り、滑走路上の人や動物は滑走路脇に退避する。 滑走路脇には深く地底に切れ込んだ川が流れていた。 何とものどかな場所である。

 

当時、外国人が泊まれるホテルは1軒しかなく、ペルー人が経営していた。 円形に部屋を配置した平屋建てのホテルは、眼前に大きな湖、その先に7000メートル級の山々が眺められる絶好の場所に建っていた。 目の前に聳える山はマチャプチャリ(魚の尻尾の意)と呼ばれ、まさに魚が大きな尻尾を空に向かって振り上げたような形をしている。 庭に据えられた望遠鏡を覗くと、山頂の雪煙が手に取るように眺められる。 湖面にはマチャプチャリの山頂がくっきりと逆さに映る。 遠くには日本人にも良く知られたマナスルが見える。 素晴らしい眺めである。 日本の北アルプス、上高地からの眺めもなかなかのものだが、その何倍ものスケールで、7000メートル級の山々が延々と連なっている。

 

湖の畔を歩いていると、一人の少年が近付いて来て、自分のボートに乗ってほしい、と言う。 直径70センチほどの丸太を縦割りにして、船首と船尾を丸く仕上げ、中をくり抜いた、如何にも手作りと言う感じの素朴な丸木船である。 それでも長さは5メートルはある。 大人が3,4人乗れる。 少年が漕ぐ丸木舟に乗せてもらい湖上をゆっくりと進む。 湖面は鏡のように静かで、マチャプチャリの峰がくっきりと映り、水は冷たく透き通っている。 何と素晴らしい舟遊びか。

 

湖畔で、キャンピングカーを止め、洗濯をしている若い夫婦に会った。 聞くと、オーストラリアから車(ワゴン車)で、インドネシア、マレーシア、中国、インドを経て、6ヶ月ほどかけてネパールへ家族で旅して来た、と言う。 何と優雅なことだろう。

 

ポカラではヒマラヤトレッキングが行われており、アメリカ人の中高年者のグループが参加していた。 今日本でも近年、ニュージーランドやカナダへのトレッキング旅行が人気を呼んでいる。 残念ながらキャンピングカーといい、トレッキングといい、日本の遊びはまだまだ遅れているようだ。

 

ホテルで一泊し、翌日空港へ向った。 空港で待っていると「カトマンズからの飛行機がエンジントラブルで、今日は来ないことになった」との連絡がスピーカーから流れてきた。 これはカトマンズへ帰る私達の便も飛行機がないので自動的に欠航することを意味する。 我がボスはびっくり仰天「だから俺はネパールなどへ来たくなかったのだ」と怒り出す。

昨日は素晴らしい山の景色を見て、「こんなきれいな所へ連れてきて貰って、本当に良かった」と感激していたのに。

 

「何が何でも帰りたい」と云う。 「ここで1日遅れると、カトマンズ〜カルカッタ〜香港〜大阪の総ての便が変更(一日遅れ)となり、大阪に出迎えに来てくれる人に迷惑がかかる」と言う。 だから「飛行機が駄目なら車でカトマンズまで行くから、タクシーをチャーターしてくれ」と言う。 「一年も長期出張していたのだから、1日くらい遅れても良いではないか」と我々は思うのだが。 仕方なく私はタクシーを探して運転手にカトマンズ行きを交渉するのだが、どの運転手も「今日は祭りがあって、遠距離(多分往復でまる一日はかかる)はダメだ」との返事。

空港にはその日の便でカトマンズへ帰る予定の欧米人の若者も10数人集まって来ていた。 彼等は賑やかに雑談しながらたむろしている。 ヨーロッパ人の若い女性が私に「何をしているのか」と尋ねる。 「私のボスがタクシーを捜せ、と云うので運転手と交渉している」と答えると、「こんな良い所から何故そんなに急いで帰りたいのか」と笑われてしまった。 全く彼女の言う通りだ。

 

結局、タクシーは見つからず、ポカラでもう一泊する以外に手はないことになったが、何しろホテルは1軒しかない。 もう一日泊まりたいと交渉したが、今日の予約は満杯で空き室はないと断られてしまった。 近くにはホテルも旅館も民宿もない。

仕方がないので空港前の雑貨屋兼みやげ物屋のおばちゃんと交渉して、店の裏の小部屋に泊めてもらうことにした。 牛小屋の隣である。 この部屋も元牛小屋を改造したもののようだ。 トイレも屋外にしかなく、硬いベッドがあるのみ。 それでも野宿よりはましだ。

 

翌日、予定通り飛行機は到着し、1年振りの日本へ向けて、無事出発した。

 

インドでの暮らし その12 招待