インドでの暮らし その3

インドの造船所2000.6)

建設指導のコンサルタント ボーイを呼出す押し釦付き 本棚の上の家族の写真 数百人の女性労働者 人間コンベア インドーパキスタン戦争 ガンジー首相

 

国内視察の1年後、我々は造船所建設の設計を終え、1970年秋、いよいよ造船所建設指導のコンサルタントとしてコチン市に乗り込んだ。 これは私の第2回目の渡印であり、技術指導のため1年間同地に滞在した。

 コチン造船所建設に関する三菱重工の技術援助は、この時以降5年間に渡って行われることになる。 この間、造船、機械、電気、土木・建築の各分野の専門家が、約1年交代の任期で現地へ派遣された(基本的に単身赴任)。

造船設計技術者(兼リーダー)1名、造船設備技術者2名、電気技術者1名、土木技術者2名、計6名が第1陣のグループであった。 その後第5陣まで派遣され、私は最初の第1陣と最後の第5陣に参加した。

宿舎は市内のメインストリート(マハトマ ガンジーロード 同名の通りがインド国内には沢山ある。日本の○○銀座と同じ)に面したホテルである。 芝生の前庭が気に入った。 我々専用に運転手付きの乗用車2台が準備されて、毎日の通勤にホテルと造船所予定地の間(車で10分ばかり)を送り迎えしてくれる。 車はアンバサダーと呼ぶ黒塗りのインド国産車で、ずんぐりとした形は10数年来モデルチェンジされていないそうだ。

毎朝車がホテルに迎えに来て出勤し、昼食もホテルで取るため、正午にホテルまで送ってくれ、午後1時過ぎに迎えにきて、夕方5時過ぎにホテルまで送ってくれる。 こんな一見優雅な生活が始まった。

建設用地内には、まだ事務所が新設されていなかったので、私には用地内に残っていたレンガ造りの2階建て民家を利用した事務室が用意されていた。 約30uの個室で入口には、MKS(Mitsubishi Kobe Shipyard)Engineer Mr.Tatemura と書かれた表札が掛けられていた。 室内には畳1畳大の木製机(ボーイを呼出す押し釦付き)とメッシュ張りの椅子が4個、木製本棚2個(私はこの上に家族の写真を飾っていた)が入りトイレが付いていた。 窓の外にはパパイヤの木とやしの木が自生し、塀には蔦の様にからまってブーゲンビリアの花が咲いていた。 いよいよインド人技術者とのこれ以降5年間続く技術援助(コンサルタント)の仕事が始まった.。

私の机には押し釦が付いており、これを押すと部屋の外の廊下にあるベルが鳴るようになっていた。 「用事があれば何時でもこれを押して下さい」と説明された。 お茶が欲しい時、手紙を出したい時、タイプを頼む時、屑篭にゴミが溜まった時、等どんな用事でもよいと言う。 日本では平社員は「そんなことは自分でしろ」と言われるの落ちだが、喉が乾いたのでお茶が飲みたいと思っても、どこで飲めば良いのか分からない。

恐る恐る押してみると、直ぐに青い綿製の作業服を着た若い男(ピオンと呼ばれる)が飛んできた。 「何かご用ですか」、「お茶が欲しい」、「イエスッサー」となる。 そのうち分かったことだが、この男、何時も廊下をウロウロしていて、何処かの部屋で釦を押すと飛んで行くのが仕事となっていた。 初めの内は押すのを遠慮していたが、すぐに慣れて、些細な用事でも遠慮なく釦を押す様になった。 この男も何か仕事がないと困るのだから。

初めの内は様子見をしていたインド人技術者がぼちぼちと私の部屋へも相談に来るようになった。 本棚の上の家族の写真は、初対面の彼等との丁度良い話のきっかけとなり、共通の話題になった。 彼等は質問や相談事項をレターに書いて持ってきて、これに対する私のコメントがほしいと言う。 造船所の設備や機械は総て入札(国内および国際入札)に掛けられるので、この時期は入札仕様書のチェックと応札書類の査定が件数的には一番多かった。 彼等だけで判断できることであっても、我々のコメントを貰っておいた方が、後々何か問題が生じた時に責任を回避できる(彼等は国家公務員)ので、何かに付けて我々のサイン付きのコメントを求めてくる様な雰囲気もあり、そこそこに忙しい毎日であった。

その内建造ドックの土木工事も始まった。 地面に巾約50メートル、長さ約300メートル、深さ約20メートルの穴を総て人力で掘る。 これは標準的な50メートルの水泳プールの巾で2倍、長さで6倍、深さで10倍に当たる(容積では120倍)。

数百人の女性労働者が毎日やって来て、穴を掘る場所に1列に並ぶ。 一人の男性労働者がスコップで土を掘り、直径40センチ程の底の浅い鉄の鍋に入れる。 この鍋を別の二人の男性がよっこらしょと持ち上げ、列の先頭の女性の頭の上に乗っける。 女性は鉄鍋を数百メートル離れた場所にゆうゆうと歩いて棄てに行き、また列の最後に並ぶ。 頭に鉄鍋を載せた女性の列が延々と続く。 人間コンベアである。 

最初の内は平地の土を運んでいるが、日が経つにつれ少しづつ掘る位置が下がって行くと、階段状のスロープが出来て穴の底から地上への列が続く。 穴の深さは最終的には約20メートルにも達する巨大なものだ。 

ブルドーザーやパワーショベル、ダンプカーなど建設機械を使えば、工事が早く進むのに馬鹿なことをするではないか、と思うのは日本人的発想である。 私も最初は同じ発想を持った。 しかし、国内の事情が分かってくると「人間コンベアー」の意味と長所が理解できてきた。

先ずインド国内、特に当地(ケララ州)は失業率が高いため、大勢の労働者を雇用することはそれ自体が有効な政策であり、選挙にも有利に働く。 ブルドーザーやパワーショベルはそれ自体輸入品であったり、輸入部品を使っているため、貴重な外貨を必要とする。 立派な外国製の設備がありながら、故障して輸入部品が入手できず放置される例はよくあることだ。 それに比べ労働者は100%国産であり、例え故障しても代替品は簡単に入手できるのだ。 こんな事情を考慮すれば機械より人間を使う方が優れた選択となる。

これら女性労働者の昼休みは、なかなか楽しそうである。 夫々持参した弁当を木陰に広げ、談笑しながら食べている。 インドでも富裕層の女性には多く肥満が見られるが、ここの女性達は太らず痩せず適度な体形をしている。 頭上の鉄なべはかなり重く、私も1度持ち上げてみたが、歩くとふらつく程だ。 彼女たちに取っては適度な運動であり、適度な収入になるに違いない。

 

インドーパキスタン戦争

仕事が始まって2ヶ月も経たない70年の末に、インドーパキスタン戦争が勃発した。 連日、勇ましいインデラ ガンジ−首相(ネルー元首相の娘)のラジオ放送が流れてきた。 仕事を中断して日本へ帰国することも検討された。 日本で戦争と聞けば、第2次世界大戦のことを想起する人もいて、派遣者の家族や会社が心配していた。 会社は家族を集め、丁度来日していたインド人責任者から現地の状況を直接説明し、家族を安心させてくれた。 インドーパキスタン戦争はインドの最北部カシミール州を戦場とする局地戦で、我々のいるコチンからは2000km以上離れており、実際日常生活にはラジオ放送以外に何の変化も見なれなかったし、2週間程で休戦になってしまった。 

その後現地の仕事もゆっくりとしたスピードではあるが進みだし、遅れていた造船所の起工式が挙行されることとなった。 式にはガンジー首相が出席することとなり、首相が演説するために石とコンクリートで固めた立派な式台が築かれ、1000人以上も収容できる大テントも仮設された。 シークレットサービスがニューデリーからやって来て、首相の行動する範囲を綿密に調査していった。 ガンジー首相は式前日、専用の小型ジェット機でデリーから来訪し、造船所近くの空港からジープの上に立ったままで手を振り、専用宿舎までパレードして行った。

式当日は、我々日本人コンサルタント6名は並んで首相を出迎えた。 造船所長が我々を一人づつ紹介し、首相は我々一人々々と握手してくれた。 小さく柔らかい手であった。

式は炎天下の天幕の下で行われた。 日頃は半袖のワイシャツにノーネクタイの我々もこの時はスーツにネクタイをし、流れる汗を拭きながら、首相の演説を拝聴した。 首相には専用のサーバントがニューデリーから随行してきており、首相が立ったり座ったりする度に、ベルサイユ宮殿にあるような立派な首相専用の肘掛椅子を、引いたり戻したりしていた。 テントの下とは云え炎天下の式場は暑く、式に出席した三菱重工の副社長は、「ホテルに帰ってネクタイを絞ったら、ボトボトと汗が出てきたよ」と云っていた。

ともかくもひと区切りが付き、建設工事もゆったりと進んで行った。

インドでの暮らし その4に続く