インドでの暮らし その7

金持ちと貧乏人2006.11)

 

大邸宅 ホテルのボーイの月給は一泊料金以下 タクシー料金の前払い 沢山の人を雇う 鍵の束

 

インドは貧富の差が激しい国だと言われているが、具体的にどの程度なのか。 インド滞在中に経験した「貧富の差」の大きさの例を2、3挙げて見よう。

 

南インドからは日本へ大量の「えび」が輸出されている。 大手食品メーカーのカップラーメンに入っている、「むきえび」はここから来ている。 日本の大手総合商社がえび輸入のためだけに、南インドの地方都市に支店を構えていた。 或るパーティの席でインド側の輸出商社の社長と話をしていたら、日本のすき焼きを社長宅で食べようと言うことになり、自宅に招待された。 肉やねぎはその社長が準備し、しょう油だけは当方が持参することとなった。 車で出かけて行き、社長宅の門を入って数百メートル走ると、大木に囲まれた森の中に大きな2階建ての建物があった。 建物の長さは100メートル程もあったように思うが、その大邸宅に、数人の使用人と社長だけ(50歳位で独身らしい)が住んでいた。 すき焼きの肉は赤身の見かけは上等な肉だったが、かなり硬く厚切り(日本のすき焼き肉のような薄切り肉は外国では見かけない)で、あごが疲れたのを覚えている。

 

また別の大金持の商社社長は、自宅に忍者屋敷にあるような秘密の扉が仕組んだあり、そこから入る隠し部屋には輸入のスコッチウイスキーやブランデーが棚にずらりと並び、バーカウンターまで作られていた。 日本でもスコッチウイスキーが数千円から数万円もする時代であり、酒好きの人が見れば思わず涎がでる部屋だった。

 

サラリーマンの給与水準では、我々の仕事の相手方(中央政府の公務員で課長クラス)の月給が1000〜1200ルピー(当時のレートで4、5万円 所得税込み)であり、我々が貰っていた現地手当(出張手当の一部 所得税はインド側負担)4000ルピー(当時のレートで16万円)は、我々が働いていた国営造船会社の会長(海軍の退役将軍)の給料(税引き後)より高額だったから、我々の給料は随分高額であった。

 

また、我々が投宿していたホテルの料金は1泊(3食と2回のお茶付き 冷房付きツインルーム)50ルピー程(当時のレートで2000円)であったが、そのホテルのボーイの月給は一泊料金以下であった。

3食と2回のお茶と言うのは日本では聞いたことのない条件だが、3食は日本と同じで朝、昼、夜の3食であるが、その他にベッドティーとアフターヌーンティーの2回のお茶が付いている。 ベッドティーはイギリスの上流階級の習慣で、朝起きた時にお茶と果物などを召使に持って来させるものである。 また、アフターヌーンティーは、最近日本でも聞かれるようになったが、午後3時から5時頃にお茶とケーキを持って来させる習慣である。 宿泊費とそれらがセットになった料金であった。

 

先ほどのホテルのボーイ達の話に少し付け足すと、ある日、早朝に出かけることがあって私の部屋のドアーを開けて廊下に出ようとすると、廊下にシーツが何枚も落ちている。 良く見ると、シーツに包まってボーイ達がタイル張りの廊下に寝ているのだった。 彼らは私や宿泊客が寝てしまった遅くになって、廊下で眠り、朝宿泊客が起きる前に、起き出していたため、私は全く気付かなかったのである。 彼らの寝室は廊下であった。 しかも、廊下にはソファーも置いてあったが、それはお客が座るもので、ボーイ達がその上で寝ることは許されていなかった。

 

 休日にタクシーを使うことが幾度かあったが、少し遠距離に行くことをオーダーすると運転手は先ず近くのガソリンスタンドに入り、そこでタクシー料金の一部前金を払ってくれと要求する。 それを払うとその前金でガソリンを補給し、それから走り出す。

何の事はない、通常はわずかのお金で少量のガソリンを買って走っているわけだ(ガソリンがもったいないので流しのタクシーはいない)。 何しろタバコを買うにも、1箱ではなく1本ずつ買うほどなのだから。

 

ある時、仲間の何人かと一緒に有名なお寺へ、観光に出かけたことがある。 我々が乗った車が止まると、10数人の乞食達が車を取り囲み、チップを要求して全員が手を差し出す。 その手を払い退けながらお寺の参道に至ると、広くもない参道の両側にはびっしりと隙間なく2列に向かい合って乞食が並んで座っている。 乞食の列と列の隙間は60センチほどで、ちょうど人が一人歩ける巾である。 

その列は100メートルもあっただろうか。 列の間を歩いて参道を進んで行くと、参詣者の足に触って施しを要求する者もいる。 参道は行きと帰りが別になっていて、そこにも同じように2列に並んで座っている。 男もいれば女もいる、老人もいれば子供もいる、赤ん坊を抱いた者もいる。 彼らは一生そこで暮らしているのだろうか。 親子の乞食もいると言うことは、生まれながらの乞食がいることになる。 厳しい現実である。

「金持ちが貧乏人に恵むのは当然」と言うのが常識になっているから、参詣者は彼らに幾ばくかの施しをしている。 それが当たり前なのである。

 

施しだけではない、金持ちは沢山の人を雇って給料をばら撒かねばならない。 例えば日本の総合商社の支店長などは、平均的インド人と較べれば、給料が高く大変な金持ちだから、当然沢山の人を雇う必要がある。 一軒家を構えていれば、掃除人、子守り、コック、運転手、植木職人、ガードマン、雑役夫、など4,5人の使用人は普通である。 使用人が少ないと「けち」と思われて非難される。

また、カースト制度からくる分業が進んでいるから、1人の女性に掃除婦と子守を兼ねさせることは認められないらしい。

従って、奥さん方は家事を総て使用人に任せて遊んでいられるが、使用人を使い慣れていない日本人は、使用人の管理に返って気を使い、疲れてしまうと言う人もいる。

 

その点、前述の造船所の課長さんの奥さん達は2,3人の使用人は普通であり、且つ使用人慣れしているので、雑用は総て使用人に任せて優雅に暮らしていた。ある時課長さんの一人が小さな食器を一つ我々のホテルへ持ってきたことがあった。ホテルの玄関で車を留めた課長さんは、その食器を自分では運ばず運転手に「その食器を持って付いて来なさい」と言って、私の部屋まで運ばせていた。食器一つと言えども使用人に運ばせるのが習慣となっているようである。

 

 使用人が多いため、家の外だけではなく、家の中にも鍵が多用される。机の引出し、たんす(物居れ)、物置、冷蔵庫、水道の蛇口(屋外のみ)、電話機(ダイアル式のダイアルに小さな南京錠が掛かっている)、などなど。 鍵付きの冷蔵庫は日本では見たことがなかったが、インドではごく普通に見られる。 そのため、一家の主婦は常に鍵の束を持ち歩いている。

 

インドでの暮らし その8に続く