人生の勾配1998.5)

状況の変化が激しい程楽しさも大きい 貧乏人ほど急勾配の上昇の可能性に恵まれる 豊臣秀吉 人生の最終段階で勾配がゼロに

 

1970年台に2年間インドに滞在した。 インドは人口が多く貧乏な人達も多い。 乞食も沢山いる。 道路を歩いていてもよく見かけたものだ。 年寄り、身体障害者、子供、などの乞食もよく見かけた。 そんな中でも、子供の乞食の表情は意外に明るい場合が多かった。 普通の日本人の大人から見れば、乞食の子供達イコール可哀相な子供達と思われがちであるが、子供達自身は必ずしもそうは感じていない様に思える節がある。

 その子達にとっては、自分が生まれた時から乞食であり、親も兄弟も同じ境遇であるから、路上の生活は普通のことであり、他人にお金をねだることにも何の抵抗も感じない行為なのかも知れない。 勿論一人一人の性格によっても感じ方は異なるとは思うが、何れにしても、我々日本人が普通に感じるものとは、かなり違ったものであると想像される。

現に私が生まれて物心ついた頃は、第2次世界大戦が終わりに近付いた頃で、私が住んでいた西宮では、毎日の様に米空軍のB−29爆撃機による空襲に見舞われていた。学校の行き帰りにもしばしば空襲警報が発令されていたし、夜寝ていても空襲警報を知らせるサイレンの音が聞こえたものだ。 サイレンが鳴ると母親が「空襲やで、起きよ。防空濠へ行くで」、と言って起こしてくれた。 私も「フーン」と言ってすぐに起きだして、親や兄弟達と一緒に家から歩いて3分程の所にあった近隣共同の防空濠へ逃げ込んだものだ。

寝る時は殆んど服を着たままだったし、枕元には何時も防空ズキンを於いて寝ていた。防空濠の様子など、今でも鮮明に覚えている。 そんな時、特別に自分が惨めであるとも、空襲が怖いとも感じたことはなかった。 もの心ついた時から戦争が常態であり、空襲が日常生活の一部になっていたからだと思う。 

 その後、戦争も終わり世も中も落ちつき、経済状況もどんどん良くなって今日に至ったわけだ。 人間そういう最悪の状況から脱して、良い状況になる過程は、楽しいものである。 且つ、良くなり方が急速であればある程、楽しさの程度も大きいものである。

貧乏な生活から、だんだんとお金に余裕ができて、欲しいと思っていた物が手に入り、食べたいと思う時に旨い物が食べられる様になるのも楽しいもので、この場合も良くなり方が急速であればある程、楽しさの程度もそれだけ大きい。

 別の言い方をすれば、状況の変化が激しい程(勾配がきつい程)、楽しさも大きいことになる。 だから経済的には、貧乏人ほど急勾配に上昇出来る可能性に恵まれていて、楽しみの可能性に恵まれていると言えるし、金持ちの家庭に生まれた子供は、それ以上経済的に良くなる可能性が少ないし、経済的な勾配が水平に近い、むしろ下り勾配になる可能性の方が高くて気の毒だと言うことになる。

 例えば、1億円の財産が1億5千万円に増えるより、100万円しかなかった財産が、1000万円に増える方がずっと楽しいものだ。 絶対額は前者の方が遙に多いにも関わらず勾配は後者の方が大きいからである。

 社会的地位に関しても同じことが言える。 何段階の階層を駆け上がるかが問題で地位そのものの高さは、それほど問題ではない。 日本の歴史上もっとも大きな勾配で社会的地位が上昇した人物は豊臣秀吉であり、その意味で地位の上昇が続いていた間、彼は幸福であり、毎日が楽しかったであろうが、彼の人生の最終段階で勾配がゼロになった(それ以上地位が上がりようのない)状態が暫く続いたので、それが彼を不幸したのではないかと思う。