経済学の未熟 (1999.7)

深刻な不況 何が何でも消費を増やせ 矛盾が平気で罷り通る 食料の増産 自然災害対策 無駄な消費 役割に有効な意義を感じて働く 「民の幸福」を表わすパラメーター

 

我が国では10年近い長期の不況が続いている。 未曾有の深刻な不況で企業はどこも減益や大赤字に見舞われ、リストラに奔走している。

しかし、本当にそれ程ひどい状態にあるのだろうか。 海外から来た人が日本の町を歩き回ってみて、いったい日本の何処が不況なのかと不思議がると言う話も聞く。 飢えた人もいないし、少々ホームレスが増えた様には見えるが町はきれいだ。  屈託なく楽しく遊んでいる若者や、年金で悠々自適の高齢者も多い。 空港の国際線ターミナルを覗いてみれば、そんな人達が大きなカバンを持ってうろうろしている。

にも拘わらず、政界や経済界では景気回復のためにあの手この手の対策を連射している。  そんな状況下で所謂「不況対策」なるものを見てみると、例えそれが必要なものであろうとなかろうと、何が何でも消費を増やせと言うことが最大の目標になっている。 本当に必要な消費かどうかは詮索せず、とにもかくにも消費をさせることを奨励している様に思える。 しかも政治家、経営者、学者など全員揃っての大合唱である。 先般実施された地域振興券の配布などもこの類の景気対策ではないか。 本当にそんなことしか経済を活性化する方策はないのだろうか。 

その一方で環境対策では廃棄物の発生削減対策や、排ガス削減対策が叫ばれている。 景気対策では懸命に物やサービスの消費を増やす(当然廃棄物も増える)ことに勢を出し、電気やガス、ガソリンの消費を奨励し(当然排ガスも増える)、その一方で廃棄物や排ガスの削減対策を言う。こんな矛盾が平気で罷り通っている。 世の経済学者と言われる人達は、こんな景気対策しか思いつかないのだろうか。 それとも経済学などと言うものはこの程度の未熟な学問なのだろうか。

現に、経済学者が予測した、「円―ドルレート」や「経済成長率」が外れたからと言って、罰則を受けたり非難されることはない。 競馬の予想屋から聞いた勝ち馬が外れたからと言って、罰則を受けたり非難されることがないのと同様である。 言い換えれば、世間一般には経済学者の予測は、競馬の予想とあまり変わらないレベルと評価しているのであろう。

地球上には飢えに苦しむ人達が何億人もいて、食料の増産を待望しているというのに、また、世界中に自然災害に見まわれその対策を待ち望んでいる人達がいるというのに、その一方で、無駄な消費(それが言い過ぎなら、必然性の希薄な消費)を必死になって作り出そうとしている。 

本当の意味で日本国民や世界人類に取って有意なことに大切な税金が投入され、それによって多くの人々の職が確保され、国民のエネルギーが有意義な目標に向けられることこそ望ましい方向ではないか。 国民一人一人が自分の役割に有効な意義を感じて働き、生きがいを感じながら日々汗を流すことが幸福につながる。 

本来、経済とは「経国済民」の言葉からきており、「民のため(国民の幸福のため)になることをして国を治める」の意であると聞く。 物を製造することやそれを消費することにのみ重点が置かれ、本来の「民の幸福」がないがしろにされているのではないだろうか。

経済状況を表わすのに各種の指標が用いられるが、「民の幸福」を表わすパラメーターはあまり聞いた事がない。 仕事をする上においても、単に廃棄物を増やすだけの生産や、消費のための消費だけの仕事では、それに従事している人達もやりがいが少ないのではないか。 真に有意義な仕事に従事してこそやりがいを感じ、働く喜びも沸いてくるのではないだろうか。 「景気を良くする」と称して単に経済指標の数字だけを高めることなど、人々の幸福に取って何かの意味があるのか。 それは経済学者の数字の遊びに過ぎないのではないだろうか。