口を閉じて目を開け(1999.8)
”see”と ”watch” 見る気で見る
誰にでも毎日通りなれた道がある。
自宅から駅までの通勤の道とか、学校までの通学路とか。 途中の道順は勿論のこと、その道に関しては、両側の家々や、道路のデコボコまでよく知り尽くしているはずである。
そんな道でも、時々「あれ、こんな所にこんな木があった」、とか「この家の表札は2枚掛かっている」とか、今まで気が付かなかったことを発見することがある。 人間は何となく見ていても、その気になって見ていないと案外見落としていることが多いものだ。
英語で言う ”see”と ”watch”の違いである。
「見ようととしない者ほど目くらな者はない」と。
例え目の不自由な人でも真剣に見ようとすれば、目のよく見える人でも気の付かないことが見えてくると言われる。
心眼と言うか肌で感じ取るのであろう。
見ようとしない者は、例え目に映っていても見過してしまうのである。
ましてや、世の中の課題や仕事上の問題点などは、毎日ぼんやりと眺めていては駄目で、真剣に見る気で見ていないと、何も見付けることができない。 往々にしてそんな人ほど良く分かっている様な発言をするものだ。
世間にはそう言う「目を閉じて口を開けている人」が多い。 それが「口を閉じて目を開けよ」と言う所以である。