競争社会の功罪2000.6)

アメリカ的自由競争がグローバルスタンダードとして拡大 多数の敗者と極少数の勝者を生む社会 最も極端な競争が戦争 科学の進歩が100年遅れても良い 殺人と破壊の技術 競争の行きつく先には何があるのか 共生社会

 

世間は将に競争激化の時代、高度競争社会である。 日本国内では政府によるあらゆる規制を見直しして自由競争を奨励しようとしている。 世界的にもアメリカ的自由競争がグローバルスタンダードとして拡大している。 確かに日本のがんじがらめの各種規制は緩和されるべきものを多く含んでおり、「規制緩和」は正しい流れであろう。 しかし本当に「競争社会」を推進していくことが多数の人にとって幸福な社会を形成することに繋がるのであろうか。

「競争社会」は「多数の敗者と極少数の勝者を生む社会」である。 これは、小学校の100m競走を例にとって考えて見ると理解し易い。 10人の小学生が100mを走る。 この競走で勝つ(1位になる)のは当然のことながら唯1人であり、後の9人は皆敗者となる (これを1次競争と呼ぼう)。 その1人も勝ったと喜べるのはその時だけで、1位になった生徒ばかりを集めて、全校レベルで競走すれば、また、1人の勝者と何人かの敗者を生む(これを2次競争と呼ぶ)。

更にその全校一の健脚も、中学生になり、高校生になって全県レベル(これを3次競争と呼ぶ)、全国レベルの競走(これを4次競争と呼ぶ)では、同様に1人の勝者と多数の敗者を生む。 更に世界レベルで競走すれば・・・・と、益々多くの敗者を生む。

こんな例を挙げると、「何も100m走」だけが競争ではないから、野球でもテニスでも、他の何かで勝てば良い」と言う反論がある。 しかし、野球もテニスも他のどんなスポーツでも競争がある限り大同小異で「多数の敗者と、少数のあきらめ人(程々の勝者、2流の勝者)と、極々少数の勝者(1流の勝者)」を生むのである。 そこでまた反論があり、「スポーツが不得手でも、良く勉強ができる子も大勢いる」と言う。 しかし、ここでも勉強の出来、不出来で競争する限り、先程の例と同様の「多数の敗者と、多くのあきらめ人と、極少数の勝者」を生むことは受験戦争の結果としてよく知られているところである。

競争社会と言えば、「最も極端な競争が戦争」であることは論を待たない。 勝者と敗者は峻別され、敗者の惨めさは言語に絶する。 多くの場合、勝者さえもが多大の犠牲を強いられる。

戦争によって科学が発達し、人類の生活向上に貢献している、と言う説もあるが、戦争が避けられるものならば、科学の進歩が100年や200年遅れても良いではないか。 否、むしろ現代の科学の進歩は速すぎて付いていけない人達が大勢いるのが実態だから、スピードダウンした方が良い。 戦争による大きな犠牲を払ってまで、科学の進歩を早める必要はまったくない。 何故なら、戦争によってもたらされる進歩の内で、最大のものは核兵器を頂点とする「殺人と破壊の技術」なのだから。

競争社会は、1次競争の勝者同士による2次競争を生み、2次競争の勝者同士による3次競争を生み、更に3次競争の勝者同士による4次競争を生む、と言う順序でどんどんと競争の熾烈さを高めて行く。 何の為に競争するのか、何の為にスピードアップするのか、 人の幸福との関わりは、一体競争の行きつく先には何があるのか。 どの様な社会が待っているのか、考えると恐ろしくなる。

人間にとって競争は避けられない宿命なのか。 競争社会に代わる別の仕組みは有るのだろうか。 今のところ私にも明確な答は分からない。 しかし、競争ではなく「共生社会」が必ずあるはずだ。 そこでは各自が自分の得意分野、得意の能力、持ち味、などを夫々出し合い、それらを上手く組み合わせて出来上がる一つの社会があるはずだ。 「能力に応じて働き、必要に応じて取る」と言う一見理想的な共産主義の社会は、悪平等と権力主義に陥って失敗したことは、ソビエト連邦の崩壊が示している。

仏教やキリスト教、回教など、宗教の教義の中にそのヒントがあるのかも知れない。 私には不勉強でまだ明確な答えがないが、例えば般若心経の教えの中で示される生活態度も、一つのヒントではないかと思う。 一人一人の心のもち方によって「競争社会」が「共生社会」に移り変わる道がありそうに思われるが、人の心ほど掴み所のないものはない。 引き続き考えて行きたい。