メキシコ体験(5カ国人4言語の小世界)1999.8)

砂漠の中の一本道 発電所建設 日本 メキシコ スペイン スイス ドイツ 両者に共通して理解できる言葉

 

私が勤務していた会社がメキシコ電力庁(我社の顧客)からディーゼル発電所を受注し、メキシコの砂漠の中に発電所を建設することとなった。 このプロジェクトに参画するため、メキシコに滞在したことがある。 途中2度の一時帰国を含めて、延べ約6ヶ月間、このプロジェクトに関わった。 日本から太平洋を越えてカナダのバンクーバーで給油し、そこから南下してメキシコの首都メキシコシテイに着く。 ここから国内線に乗り換えて、約1時間のフライトで地方都市 ラパス に到着。 ここはアメリカのロサンゼルスから南に延びるカルフォルニア半島の突端に近い町だ。 ここから砂漠の中の一本道を約3時間車で北上する。 この間、運転手にコカコーラを売る店が1軒あっただけで、人家は全くない。 ただ、砂漠の中の1本道を走り続ける。

途中対抗車線を疾走するトラックや、アメリカ人の運転するキャンピングカーに時々出くわす程度で、景色も殆ど変化がない。 砂漠には点々とサボテンが見られる。 これがなんと国道1号線と言う道路表示が出ていたのだが、本当だろうか?? ともかくこの1号線を3時間走った後小さな田舎町、シューダ デ コンスチチューション(なぜか「憲法の街」の意)に着く。 ここから枝道に入り、更に1時間弱で発電所建設サイトに到着する。 ここも砂漠の中、といっても鳥取砂丘やサハラ砂漠の様な完全な砂山ではなく、土漠(砂と土)で、小さな潅木やサボテン、地を這う草が僅かに生えていて、雨季(砂漠にも短期間の雨季がある)には川ができ、小さな草木には花が咲いて、砂漠全体がぼんやりと色付く。

ここに発電所建設のための工事現場がある。 機材の盗難など保安上の関係から、敷地全体が鉄条網で囲われており、入口には常時数人のガードマンが立っている。 この敷地の中に、建設中の発電所建家、資材置き場、メキシコ電力庁の現地事務所、我々の現地事務所、建設技術者用食堂、作業者用食堂、工事作業者用の建家、などが点在している。 建家は発電所以外総て仮設のバラックである。

鉄条網で囲われた敷地すぐ外側には、メキシコ電力庁の現地技術者用に簡素な木造仮設社宅が十数軒建てられており、この内3軒(2寝室、ダイニング、キッチン、トイレ、シャワー(勿論バスタブはなし)、4人用)を、我が社の出張者用に借りて使用していた。 私もここに寝泊りしていた。 何しろ周辺は総て砂、砂、砂、であり、窓の隙間から細かな砂が進入するので、室内と言えどもうっすらと砂埃が積もっていたが、贅沢は言えない。 現場の宿舎としてはまずますであろう。 宿舎は海岸のすぐ近くで、家を出て50メートルほどのところには、誰もいない綺麗な砂浜があり、小魚が泳いでいるのが見られた。 毎朝ここで自炊の朝食を済ませ、歩いて5分ほどの作業現場へかよっていた。 入り口のガードマンに「ベノスディアス(お早う)」と声を掛けるのが仕事の始まりであった。

宿舎は順調に行けばこの3軒で足りるはずであったが、トラブルあり、私を含めた応援の技術者が増えたため、アメリカ(ロサンジェルス)から、大型トレーラー式のキャンピングカー(2寝室、キッチン、ダイニング、トイレ付き、4人用)を1台、長期レンタルしていた。 アメリカ製のトレーラーは、狭いがなかなか快適で、クーラーもあり電子レンジや冷蔵庫も付いていた(電気と水は外部から供給される)。 もっとも砂漠の中であるため、或る時入口に脱いでおいた靴の中に、サソリが1匹入っていて驚かされたことがあった。

建設現場の中には、我々の現地事務所が1軒ある。 事務所と言っても縦10メートル横6メートル程、平屋に萱葺きの建物。 電気はあるが水道やガスなどは一切なし。 締め切った窓から粒のごくごく細かな砂が入り込み、一日で机の上が薄っすらと白くなる。 この現地事務所で、建設技術者約20人が仕事をしている(数百人の現地労働者は、別の建物)。 この狭い部屋に日本人、メキシコ人、スペイン人、スイス人、ドイツ人の5カ国人が所狭しと机を並べて、砂漠の中の小世界を構成している。 全体取りまとめは日本、発電機(25000kw 2台)はスペイン製、発電用のジーゼルエンジン(32000馬力 2台)は日本製、制御装置はドイツとスイス製、配電盤はメキシコ製という構成だ。

お客(メキシコ国営電力会社)はメキシコ人なので正式書類はスペイン語、仕様書はスペイン語と英語と日本語。 何ともややこしいことである。 そこにいる技術者も、日本語だけが理解できる人、スペイン語だけが理解できる人、日本語とスペイン語が理解できる人、日本語と英語が理解できる人、ドイツ語と英語が理解できる人、と様々だ。 全員がいろいろな場面でコミュニケーションを取る必要があるわけだが、人によって通じる言葉が異なるので、AさんとBさんが話をする場合、両者に共通して理解できる言葉を使う必要がある。

例えば、日本語と英語が理解できる人とスペイン語と英語が理解できる人とが話をする時は英語を使う。 ドイツ語とスペイン語が理解できる人とスペイン語だけが理解できる人とが話をする時はスペイン語を使う、と言う具合である。 両者に共通の言葉がある時はまだ良いが、日本語と英語が理解できるAさんと、スペイン語だけが理解できるBさんとが話をしなければならない時は厄介だ。 AさんとBさんの間に英語とスペイン語が理解できるCさんを見つけてきて、Aさんが英語でCさんに話し、Cさんがスペイン語でBさんに取り次ぐ、と言うことになる。

何しろ狭い部屋に、5つの国の人々が4つの言葉を使って話しをしながら仕事を進めるのだから大変だ。 おまけに、そこで使われている装置や部品はやはり5つの国から送られてきたものだから、何か不具合があれば夫々の国に電話やファックスをして連絡を取るわけだから、何とも複雑な仕事である。 その電話線も仮設のためか、時々不通になる。 その時は隣村の電話屋さんまで行かなければならない。 「電話屋さん」には、一人の女性交換手と5つほどの電話ブースがあり、電話番号を告げて申し込んで暫く待つと、繋がったから何番のブースに入りなさいと指示してくれる。

建設期間中いろいろとトラブルもあったが、その2.3を述べよう。

その1: 発電機、ディーゼルエンジン、制御装置など主要装置は輸入品(スペイン製、日本製、スイス製)で一応信頼できたが、補助の電気品は、契約書で決められた国産化率(契約金額の40%はメキシコ国内調達)の関係で、総てメキシコ製であった。 納入されたこの装置が曲者で出来が悪かった。 当然客側の検査に合格しなければいけないのだが、いろいろと不具合があり、日本的感覚では到底合格しそうにない。 といって総て手直しするだけの日程も残されていない。 しかし、電気品メーカーの技術者は「何とか合格させる」という。検査の日になり、メキシコ人の検査官が来て検査をした。 不具合部分はしっかり診ているが、一切コメントは無く、結果は「合格」である。 どうやらメキシコ人どうし、裏で話が着いているようである。

その2: いよいよ設備の据付が終わりに近づき、試運転に入った。 偶々、過給機に不具合があり我が社の技術者が日本から代替品を輸送してきて、新しい過給機に取り替えた。 早速、試運転する。 過給機は毎分1万回転に近い高速である。 関係者一同6,7人が固唾を飲んで見守る中、キーンと音がして順調に回転する。 2,30分運転して一応OKなので、全員が夫々の持ち場に散らばった直後、「バーン」と言う破裂音が過給機の方で聞こえた。 何事かと全員が集まると、先ほどまで順調に回転していた過給機が数個の破片になって10メートルも飛び散っていた。 破片の中には30センチ程の物もある。 破裂の際は誰も近くにいなかったので、怪我人はなかったが、もしも、関係者の離れるのが10分遅ければ、間違いなく怪我人が出ていたことであろう。 幸運であった。

その3: 試運転の最終段階には、7日間の連続運転が課せられている。 この間に少しでもトラブルがあれば「不合格」である。 それまでの短期間試運転でもいろいろと細かなトラブルがあったので、7日間無事動いてくれることを願うばかりである。 運転は何とか無事に進んで行った。 5日目の夜中、私は宿舎で寝ているところを呼び起こされた。 運転に立ち会っていた我が社の指導員が、「トラブルで運転が止まりました」と言う。 直ちに発電所に駆けつけると、発電機の遮断機(主スイッチ)がトリップ(回路がショートして切れる)していた。 遮断機の接点部分を見て、私は直感した。 金属片か何かが遮断機に入り込んだに違いない。 そう言えば前日遮断機パネルの上で清掃していたのを見かけた。 しかし、証拠がないと事故原因を証明できない。 早速、遮断機パネルの中を懐中電灯で探し回る。 あった。 長さ20センチほどの番線(鉄線の現場用語)が見つかり、ショートして溶けた傷跡もある。 原因が分かったので直ちに運転再開(幸いお客側の立会い者は夜中で不在)。
 翌朝一番にお客側の責任者の事務所へ、証拠の番線を持って出かけた。 昨夜トラブルがあったこと、原因はこの番線が振動で遮断機内に落ち込みショートしたこと、番線は前日お客側が行った清掃作業に使っていたものであること、連続運転は当方の判断で再開したこと、などを説明した。 責任者も証拠を見せられては了解するしかない。 結局、無事連続運転を終了できた。

その後発電所は無事完成し、今も砂漠の中の畑(土漠でも灌漑設備があれば野菜が育つ)の灌漑用ポンプを回す電気を供給し続けている。 私自身、本当に貴重な経験をさせてもらえたと、今も感謝している。