物と心の乖離2007.7)

「もの」は「こころ」の制御が利かないほどに増加 「ソフトウエア」は「ハードウエア」に較べ再生産が容易 コンピュータプログラム バグが皆無のプログラム製作は不可能 プログラムの規模は大きくなり複雑化 コンピュータの発達に人の制御力が追いつかない 「物質優先文明」の時代から「精神優先文明」の時代へ

 

  歴史が始まって以来、人間はあらゆる「もの」を生産し蓄積してきた。 その一部は消費したり破損(時には破壊)したりして消耗したが、全体として積み重ねられた「もの」の累積は、増加の一途を辿ってきた。

一方、人の精神である「こころ」は、その人一代で成長し、その人の死と共に消滅する。それを積み重ねることは出来ない。 その結果、「もの」は増え続け、常に「もの」と「こころ」の乖離は広がり続けて来た。 「もの」は「こころ」の制御が利かないほどに増えてしまい、「もの」が「こころ」を煩わせる存在となってしまった。

 

簡単な一例を挙げる。 才能と幸運に恵まれた人が努力の末に、大きな財産(「もの」)を残して亡くなった。 その子は特別な才能は持たずに、大きな財産を手に入れた。 親は努力をして「もの」を蓄積する過程で「こころ」を磨き、「もの」の使い方も習得していたが、子は「こころ」を磨くチャンスもないまま「もの」を得てしまったので、「もの」の正しい使い方を知らない。 その結果「もの」が子を滅ぼしてしまう。 こんな例はいくらでも見られる。

 

近年、「もの」は更に「ハードウエア」と「ソフトウエア」に分かれてきた。 (ここで言う「ソフトウエア」はコンピュータ上に蓄積された「知識」、「経験」、「芸術」や「システム」、「プログラム」を言う。) 「ソフトウエア」は「ハードウエア」と較べた時、その再生産(コピー)が格段に容易である。 例えば、「ハードウエア」の一種である自動車を生産するには、材料、工場、作業者などを必要とするが、「ソフトウエア」のコピーにはそれらは殆んど必要とせず、極めて容易に再生産できる。 「ソフトウエア」は保管場所が殆んど不要なこともあって、有限な「ハードウエア」に比し、その再生産は殆んど無限に可能と言える。 この点にも実は「ソフトウエアの厄介さ」がある。

 

近年コンピュータ素子の小型化、低廉化により、コンピュータが身の回りのあらゆる製品に組み込まれるようになって来た。 家電製品は勿論のこと、自動車や携帯電話から、お風呂やキャッシュカードにまで入ってきた。 普通の人はそれから逃れることはできない。

当然ながらこれらのコンピュータには「コンピュータプログラム」が組み込まれている。 ここで問題なのは、「コンピュータプログラム」には、欠陥(瑕疵、バグ)が含まれることが避けがたいと言う事実である。 プログラムの製作に少しでも係わった経験のある人ならよく理解されていると思うが、バグが皆無の完璧なプログラムの製作は、殆んど不可能である。 プログラムの信頼性(品質)は、バグの含まれたプログラムを如何に厳密に検査して、バグを追い出すか(デバッグ作業と呼ばれる)に掛かっている。

 

あらゆる事態を想定して、何重にも検査を行うが、所詮、人間の想定には限度が有り、この検査をすり抜けて生き残るバグや、想定外の事態発生によるトラブルは避け難い。 しかも、新規開発のプログラムだけで一つのシステムを構成する場合はまだ良いが、多くの場合、製作工程の効率化を図るため、過去に製作されたプログラムの一部分を転用する場合や、従来から使用して来た既存のプログラムに、新しい部分を一部分追加する場合も当然ある。 既存部分と新規部分が一体となって、コンピュータプログラムの規模はどんどん大きくなり、複雑化している。

 

「ソフトウエアの厄介さ」、特に「コンピュータプログラムの厄介さ」は、将にこの点にある。 しかも「こころ」を磨くチャンスを持たなかった子と同様に、殆んど総ての一般ユーザーは「コンピュータプログラム」の製作過程やその仕組みを全く知らずに使っている。 そのため、プログラム製作者や検査者の考えられないような使い方をすることが十分に起こり得るし、事実起きている。 急速度で発展・膨張するコンピュータに、人間のコントロール力が追いつかない状態となっている。 明らかに、ソフトウエアとそれを利用する人との乖離が進んでいると言える。

 

コンピュータを初めとする科学技術や軍事技術の発達に対して、人の制御力や政治力が追いつかない状況になって来ている。 「物質優先文明」の時代から「精神優先文明」の時代へ早急に方向転換しなければ、取り返しのつかないことになる。 それが分かっていても、どうすれば転換できるのか、残念ながら、現在誰も具体的で現実的な答えを持っていないように思える。