お役所仕事2001.9)(2007.7)

源泉徴収 国、県、市、が別々の窓口 年度予算の愚 無罪と有罪の異なった判決を出す 民間社会での経験を積まずに任官 順次分割して増設 番地がなければ受け付けない 雪の下800番地 世間で普通に行われている事象も鵜呑みにしない 自分なりの判断基準を持つことが大切

近年公務員の不祥事が続発し、お役人の権威と信頼が大幅に低下している。

公務員は民間企業人と較べて一般的にコスト意識が極めて乏しい。 身近な例として、納税制度を見てみる。 企業は社員の源泉徴収のために多くの時間を費やしているが、国はそれに掛かる人件費を一切支払っていない。 それどころか、提出書類にあれこれと細かな注文を付けている。 

 

国民は国から要求される書類を自費で作成し、公務員は給料を貰ってその書類を審査している。 本来なら国は無償で仕事を民間に依頼しているのだから、業務を最低限度にして民間に頭を下げるべき性質のものである。 本末転倒ではないか。

 その上政府は税金を取るために、国、県、市、の3者が別々の窓口を設けている。 一般のサラリーマンは税金を源泉徴収されるため、あまり気付かないが、サラリーマン以外の国民は税金を支払うために3種類の書類を作成し、3つの窓口に行かねばならない。 日本国は一つなのに、何故3つの窓口なのか。 それは国側の理屈で考えるから3つになるのであり、国民の側の理屈で考えるなら当然一つになるはずだ。

 

 年度予算と言う考え方も「愚」な例である。 官に関係する仕事をしている所では、毎年4〜7月は年度予算が決まらないので暇、1〜3月は年度末の締め切りで大忙し、1年12ヶ月は実質8ヶ月となる。 毎年こんな無駄を繰り返している。

何のために年度予算という考え方があるのか。 世の中の動きは年度などには本来関係なく、時々刻々と動いている。 それを年度毎に無理やり区切ることの方が不自然である。 「年度」とは経理屋さんのために存在する。 彼らが仕事をし易いように区切りを付けている。 しかし、世の中、お金をコントロールしている人(国では財務省、会社では経理部)の発言力が強いので「年度」の思想がまかり通っている。

 

本来は年度で区切ることなく、仕事単位(プロジェクト単位)で予算と期間を決めるべきである。 どなたか頭の柔らかい経理屋さんがいて、年度のない経理制度を創って貰えないものだろうか。

 

国と民間との間で裁判沙汰となることがある。 市民は国のやり方に不満があって国を訴える。 いざ裁判となると、公務員は国から(国民の税金から)給料を貰いながら裁判をする。 強大な国家権力を握り、国の面子が立つまで何年かかって争っても痛くも痒くもない。 一方市民は裁判に掛かる費用は総て自分持ちで、且つ公務員の給料まで払いながら(税金を払いながら)裁判を続けなければならない。 市民は被告側の公務員の給料を払っているだけではない。 裁判官や検察官の分まで払っているのである。 何と理屈に合わないことか。 国が国民から訴えられること自体、国側は恥じるべきである。

 

刑事事件の裁判でも、同じ事件を扱った地裁、高裁、最高裁、で無罪と有罪の異なった判決を出すことがある。 真実は1つのはずであるから、違う判決が出ればどちらかが間違っていることになる。 普通の常識で言えば、例えば地裁段階で有罪であった事件を高裁で無罪とするなら、当然裁判所としては「地裁では間違った判断をしました。申し訳ありません。」と謝るべきである。 しかし、裁判所は「裁判官は独立しているから、違った判断が出てもしようがない。」と当然のような顔をしている。 いくら裁判官が独立していようと、裁判所の組織全体として、誤りを犯せば誤るのが当然である。 そのような間違った判断による被害はすべて国民(この場合は被告)に皺寄せされている。

 

これが民間企業で同じようなことがあればどうなるか。 顧客からクレームが出され、課長が調査した結果、誤って「顧客の方が悪い」と判断し、顧客に回答した。 納得しない顧客が上司の部長に言うと、部長が再調査して「会社側が悪かった」となった場合、当然部長は顧客に謝罪し、課長は社内規則により何らかの咎めを受ける。 これが常識である。

 

また、裁判官は容疑者の刑期を決める際に、その刑期の間に刑務所が犯罪人を収容しておくために、いか程の経費(税金)が掛かるか、考えたことがあるだろうか。 仮に終身刑を宣告された犯罪人を30年間収容すれば何千万円の経費(税金)が掛かるのか。 その何千万円を金に困って自殺をする人達(毎年3万人いると聞く)のために使えば何人の人の命を救えるか。 こんな考え方は公務員から見れば暴論だろうが、少なくとも全く別の発想も必要ではないかと思う。

 そもそも裁判官にしろ、検察官にしろ民間社会での経験を積まずに任官しているから、コスト意識など身をもって経験する機会がないため、民間人の考え方と大きな乖離が出てしまう。

 

民間での社会経験がないという意味では、学校の教師も同じで、大学を卒業したばかりの若い時から、生徒の親達に「先生」「先生」と持ち上げられて、一般社会から切り離された学校という聖域で過ごす。 親達は大切な子供を人質に取られているので先生とは対等な立場でものが言いにくく、心中では少々異論があっても、ついつい先生に同調させられてしまうことも多い。 その結果一般社会の常識とは異なった、学校という聖域だけに通用する常識を身に付けた先生が蔓延してしまう。

 

総ての公務員は民間社会での経験を積んだ後(税金や授業料を払う立場を経験した後)にお役人、裁判官、検事、教師になるべきである。 そういう意味で企業人と公務員との人事交流を長期、大幅に実行する必要がある。

 

 上記の話は単なる愚痴かも知れないので、現実論に戻る。 そんなお役人を相手に仕事をする民間人として1,2の工夫参考例を記して見る。

 

以前50万u程の工場建設をしたことがある。 私はその工場の電気設備全般を担当した。 何もない更地に工場電気設備を新設するためには、膨大な申請書類と官庁による竣工検査を受けなければならない。 工場は規模が大きいので全設備を同時に完成させることは現実的に難しく、何段階にも分けて完成させていく。 最初に計画設備全体の申請書を作成し、設備の完成に合わせて、その都度何回も竣工検査を受けていては大変な事務手続きとなる。 しかし、これが法律の要求している手続き方法である。

 

そこで一計を案じた。 ごくごく小規模の設備を新設する書類申請をする。 規模が小さいので書類も簡単、検査もごく簡単に済む。 その後、その設備を工場の建設工程に合わせて、順次分割して増設する手続きを取る。 増設の申請は、新設の申請に較べて格段に簡単である。 検査も一回毎の規模が小さいので「検査なし」となる。 お役所の担当官は首を傾げることはあっても、合法的であるので文句は言わない。 結果的に見てもこの方法が合理的であり、且つ、現実的である。

 

ある時、郵便局から田舎へ小包を出すこととなった。 住所を書いたが番地が思い出せない。 今まで何度か手紙を出したが、番地なしでも届いていた。 小さな田舎の村であり、○○村の○○さんと言えばその村の郵便局員は誰もが知っている。 

しかし、当の郵便局の窓口担当は番地がなければ受け付けられないと言う。 困ったことだ。 そこでまた一計を案じた。 ○○県○○郡○○村の後に「雪の下800番地」(この村は雪が多いことで有名)と追記して提出した。 当の窓口担当は黙って受取った。 勿論、郵便物が無事届いたのは言うまでもない。

 

上記は一つの事例であるが、世間一般で普通に行われている事象であっても、決してそのまま鵜呑みにしてはいけない。 それが本当に正しいことか、正しいと判断する根拠は何か、を自分で検証すべきであり、正しく判断するための自分なりの判断の基準を持つことが大切である。