戦争の体験(その2 戦後)1999.8)(2000.8)

食糧難 さつま芋 いつも空腹 買い出し 夜中に食べた芋 良く消える消しゴム 数百万人の犠牲者 精神論にはまり込んだリーダー層 敵を知るは兵法の基本 現状調査と実力分析を怠る 外交戦略の大切さ 自分の判断基準を持つ

  戦争中から始まっていた食糧難は戦後ますます深刻になった。 米は配給制で1日1食分にも足りなかった。 米穀通帳(配給を受けるための家族構成の証明書)が身分証明書代わりになっていた。 車(と言っても自動車ではなく、人や馬が引く荷車や自転車)の通らない家の近くの道路(8メートル幅位か)は、中央1メートル程を残して道端まで総て畑になっていて、トマト、なすび、大豆、ともろこし、などが植えられていた。 

 

さつま芋は砂地でも水さえやれば育つので、あちこちの畑に植えられていた。 江戸時代、青木昆陽が飢饉に備えて普及させたさつま芋だが、戦後多くの日本人がさつま芋で飢えを凌いだ。 さつま芋は芋の部分だけではなく、葉っぱや蔓(つる)も食べた。 麦ご飯(押し麦)はましな方で、米の配給が少ないので、さつま芋をおかゆに入れたりして量を増やしたものだ。

 

大根も根の部分は勿論のこと、今なら畑に捨てられる葉の部分も食べていた。 豆かす(大豆から油を絞ったかす)も米の代わりに配給され、それを焼いて食べた。 おから(卯の花)やとうもろこし、粟入りのおかゆも食べた。  どじょう、たにし(稲田にいる巻貝)、蛙(大型の食用カエル)、雀も食べた。 秋には木綿針に糸を通して田んぼに行き、イナゴを捕まえては腹に針を通し、何十匹も連ねたものを焼いて醤油を付けて食べた(香ばしくて美味しかった)。

 

  ひもじい時は何でも美味しいと思って食べられたが、それでも量の不足は補いきれず、いつも空腹を感じていた。  両親が汽車に乗ってどこか田舎の方(岡山、和歌山、静岡方面にまで行っていた様に思う)まで買い出しに行くこともしばしばだった(当時私達の家族は西宮市に住んでいた)。  買い出しに出かけた時は必ず何か食料を持って帰って来るので、それが楽しみで夜遅くまで起きて待っているのだが、時には小学生の私には待ちきれず、空腹を抱えて淋しく寝てしまうこともあった。

 

そんな時、遅く帰った母親が夜中に起こしてくれ、買ってきたばかりのさつま芋をふかして食べさせてくれたことがあった。  夜中に食べた芋が何と美味しかったことか。   空腹の我々子供たちも辛かったが、子供に満足に食べさせてやれなかった親達はそれ以上に辛さを感じていたのではないかと、今にしてつくづく思う。

 

  アメリカからの食料援助で小麦が輸入された。 これについては、ずっと後になって、「あれはアメリカで余っていたものを日本へ押し付けた」とか、「無償援助といって送ってきたのに、実は有償だった」とか、アメリカを悪く言う人達もいたが、援助がなければもっと多くの餓死者が出ていたと思われるし、少なくとも当時の私達にとって「天の恵み」であったことは事実である。

 

敗戦から数年経過して、少しづつ食料事情も改善されて行った。 現在ではとても安く輸入されているバナナが、当時は果物の中では最高級品で、病院に見舞いに行く時に持って行く果物籠に、1本でも入っていればとても高級に感じたものだ。 牛乳も現在は安価に買えるが、当時は高級な飲み物で1合ビン(180cc)が1家に一本配達されている家は上等な方だった。

  学用品も長く不足がちで、アメリカの援助で配給された、良く消える消しゴムや黄色い鉛筆、真っ白な上質紙、カラー写真入りの教科書など、どんなに素晴らしいと思って手に取ったことだろう。 

 

 衛生状態も、現在からは想像できないほど劣悪であった。 大多数の国民は、ノミやシラミに悩まされた。 夏には蚊が多く発生し、一般家庭には網戸が全くなかったので、夜になると開け放たれた窓から入ってきた蚊が家の中を飛び回っていた。 そのため、どこの家庭でも蚊帳を吊って寝るのが普通であった。

 

ハエも多く、家の中にも沢山いたので、食事時には食卓にやってくるハエを追い払わなければならなかった。 各家庭には必ずハエ叩きが何本か置かれており、これで畳の上に止まったハエを叩き潰していた。

  古くなった家は、雨漏りがすることも多く、幾つものバケツや小さな洗面器を畳(当時の家は殆んど和室)の上に並べて、天井からぽたぽたと落ちてくる水滴を受け止めていた。 洗面器などをそのまま置くと、ぽたぽたと音がして夜にはうるさいし、天井から落ちてきた雨水が跳ねて、畳が濡れるので、洗面器の底には古布で作った雑巾を敷いていた。

 

長々と戦中から戦後に掛けての体験を書いてきた理由は、日本がいったいどうしてこんな戦争を始めてしまったのだろうか、また、2度とこんな戦争を起こさないためにはどうすべきなのか、を考えたかったからだ。   原因は何か。  数百万人の犠牲者を出した事から何を学ぶべきなのか。 これを忘れてしまっては犠牲となった人達に本当に申し訳がない。  (この戦争の死者は日本人だけでも300万人と言われており、中国を始め、アジアの人達の犠牲者の数はその何倍にもなるのではないか)

 

  明治維新以来、日清・日露の両戦争で勝ち、日本は慢心していたのではないか。 両国は大国であっても国内が混乱していて統治能力を欠き、戦争どころではなかったのだ。 世界を知らない大部分の国民と、少しは理解していたが精神論にはまり込んだリーダー層は、冷静な判断力を完全に失っていた。 米国の実力を理解していた一握りのインテリ層も、軍部を中心とする戦争への大勢に勝てず押し流されてしまった。 戦況が怪しくなってくると、軍は一億玉砕などと馬鹿げたことを言い、何のための軍隊か、何故戦争をするのか、勝つ見込みのある戦争なのか、など基本的なことを総べて忘れてしまった。   軍隊は国民を守るためにあり、勝つ見込みのない戦争は絶対に避けねばならないことなど、軍人の最も基本的な考え方を、十分承知していながら無視してしまった。

 

  戦争は外交の最終手段であること、敵の実力を十分に知り味方の実力と比べて確実に勝つ見込みがなければ、決して戦争手段に訴えてはならないこと、などはクラウゼビッツの「戦争論」や中国の古典「孫子」の兵法を少しでも学んだ軍人なら、みんな熟知していることである。 そんな故事を知っていながら全く活用していない。  それどころか「敵を知るのは兵法の基本」であるにも拘わらず、アメリカでは戦前戦中にかけて日本研究が進んでいるのに、日本では英語を学ぶことさえ禁じてしまっている。  囲碁で言えば、熟知しているはずの定石を全く無視して闇雲にけんか碁を仕掛け、こてんぱんにやられた様なものである。

 

  ここから得られる教訓が2つあると思う。 1つは外交交渉と戦略の大切さ、もう1つは物事を判断する自分独自の判断基準を持つことの大切さ、である。

 国際連盟の舞台で粘りに粘って外交交渉を続け、その一方でアメリカと戦争をして本当に勝てるかどうかを徹底して調査すべきであった。  この徹底した現状調査と実力分析を怠り、感情論と精神論で重要な国策を決めてしまった所に大きな過ちがあった。

 

世界史は戦争の歴史である。 歴史を読めば分かるように、一度や二度の戦闘では偶然勝つ様なことがあっても、何度もの戦闘に勝ち続けたり、大きな戦争に勝つためには現状調査と実力分析が不可欠である。  それにも増して外交交渉外交戦略の大切さの事例は枚挙にいとまがないし、ここでも現状調査と実力分析が大切な要素となる。  歴史は如何に同じ過ちを繰り返しているかを良く示している。

 

  もう一つの教訓は国民一人一人が自分の判断基準を持つことである。  物事を判断する際、何を基にしてイエス、ノー、右するか左するか、を決めるのか。  自分で判断することができず、周囲を見渡して他人がどう動くかで自分の結論を決めているのではないか。  もし国民一人一人が自分の判断基準を持ち、自分で物事を決めていれば、決して1億玉砕などと言う馬鹿げた話に、全員が同意すると言うことにはなり得なかったはずである。  個人が個人としての自覚を持っていなかった所に全体主義がはびこり、国を誤った方向に導いてしまった。

  これらの教訓は、大は一国の方針でも、小は個人の生き方でも全く同じである。  私がこのホームページで次の世代の人達に伝えたかったことは、将にこの「判断基準を持つ」ことの大切さである。

戦争の体験(その3 戦後)