葬 式1999.8)

戒名を付ける 宗教の本質に反する金儲け主義 生きる術を教えてくれるのが宗教活動 仏教の四大聖地 初転法輪の地 原点に立ちリラックスして平易な言葉の説法を聞く

 

少し古い話になるが、私の配下の男子社員が若くして肺ガンで亡くなったことがあった。 家族は奥さんと女の子(高校生)が一人だけで男手はなかった。 適当な親戚がいなかったこともあって、葬儀は職場の同僚に手伝ってもらい、私が取り仕切ることにした。 一家の柱が亡くなったことでもあり、葬式には出来るだけ費用を掛けず、香典として集まったお金もなるべく家族に残るように配慮した。

葬式そのものの費用は、ご当人が長く労働組合の世話をしてきており、且つ、直前の地方選挙運動にも熱心に協力していたこともあり、組合から特別に出費してもらった。 さて、戒名を付ける段になって奥さんに希望を尋ねてみると、できれば院号が欲しいとおっしゃる。 戒名には何段かのランクがあって、院が付いたり、大居士が付くのは坊さんに出すお金も高くなると言う。 院が付き大居士が付く戒名はうん十万円が相場だと坊さんがおっしゃる。

そこで止むを得ず、残された家族は奥さんと娘さんだけで気の毒だからと言って、値切り交渉をして特に安く負けてもらった。 葬儀に関する費用を、それも坊さんへのお金を値切る人はあまりないらしいが、そもそも、死んだ人に新たな名前を付けたり、出す金額によって名前に差を付ける方こそ、宗教の本質に反する金儲け主義ではないか。

それより何より、あの訳の分からないお経を尤もらしく唱えることこそ理解に苦しむ。

あれは誰に向かって唱えているのであろうか。 素人の私が想像できるのは、3者である。 即ち、1番目は、死んだ人に向かって、これから行くあの世での暮らし方を説明している。 2番目は、あの世の仏様に向かって、このたび誰々さんがそちらへ行くことになったので、宜しくとお願いしている。 3番目は、葬儀に出席している我々に向かって、あなた方も必ず一度は死ぬことになるので、覚悟をしておくように、自覚を求めている。

仏様はあのお経が理解できるのだろうか(少なくともお釈迦様はインド人で日本語や中国語は分からない?)。 死んだ人や我々に意味の分からない言葉で話しかけても、理解できないと思うのだが。 それともあれは坊さんが自分自身(自分だけは少しは意味が分かっているのだろう?)に向かって話しているのだろうか。

本来坊さんが我々一般人に向かって、生きる術を教えてくれるのが宗教活動の本筋である。 そうであれば、当然一般人が理解できる言葉で話し掛けなければ意味がない。 中には意味が分からないから有り難いのだ、などと言う人もいるが、それでは本来の宗教ではない。

かつてインドに初転法輪の地」を訪れたことがある。 仏教には四大聖地と言うのがある。 即ちお釈迦様が生まれた地、同じく悟りを開いた地、初めて説法をされた地、そして亡くなった地、の四個所である。 「初転法輪の地」はその3番目の聖地である。 お釈迦様は菩提樹の下で断食をして瞑想を続け、悟りを開いた。 菩提樹の下から立ち上がり歩きだした時、一人の女性がミルクで炊いたおか湯を釈迦にふるまい、釈迦はおいしそうにそれを食べたと言われている。

その後その地をたって始めて法(人の生きる道)を説いた記念の地が「初転法輪の地」である。 有名なガンジス河畔の大都市、ベナレス(現地名 バナラシ)の郊外にあるサルナートと言う小さな村である。 現在は日本やその他の国の仏教徒からの寄付によって建てられた一寸したお寺があり、お寺の中にはお釈迦様の一生を表わす絵(曼荼羅)が壁一面に描かれていた。 その絵にもあるように釈迦はいろいろな人達に話をしているが、総て相手が理解できるように話をしたものと思う。

今のお経のように意味不明の話では、誰も釈迦の言うことなど聞かなかったはずである。 2500年前から現在に至るどこかで、或いは、インドから中国、朝鮮を経て日本へたどり着く道中のどこかで、何かの間違いで今のような一般人には意味の分からないお経になってしまったのであろう。 残念なことである。

ついでにもう一つ、葬式の時に正座をして、足が痺れて立てなくなった経験を持つ人が多いことがある。 なぜ足を崩してあぐらを組んではいけないのかと何時も疑問に思う(私は最初からあぐらにしている)。 お釈迦さまの座像は総てあぐらをかいている。 お釈迦様は先生で我々は生徒だから、先生はあぐらでも良いが生徒は正座すべきだと言うことだと思うが、お釈迦様は、「自分は偉く、おまえ達は未熟だ」、と言うような考え方をされる人では決してない。 自分も我々も同じ人間で、差別をする考え方は取られない人である。

ご自分の姿を拝むことを禁じていて、仏像など決して作らせなかった人なのだから。 現在のような仏像は釈迦が亡くなってから500年も経った後に、初めて作られているのである。 だから原点に立ち戻って考えれば、あぐらをかいてリラックスして、平易な言葉のお経(説法)を聞くのが正しい作法であると思う。