インドでの暮らし その9
国内
旅行 (2005.6)

コモリン岬 ケララ州の州都 3つの海が交わる所 ゴア フランシスコ ザビエルのミイラ バンガロール 国立野生動物保護区 チェンナイ 純日本風おせち料理 ヒンズー教の寺院

 

 インド滞在中、休暇を利用して何度か国内旅行を試みた。 その概略を記す。

 

1.コーチンー>トリバンドラムー>コモリン岬

コーチンの町にも旅行代理店がある。 インド最南端のコモリン岬(Cape Komorin は英語名、現地名はカニヤクマリ)へ行きたいと言うと旅行代理店の太ったおっさんが眼をぐりぐりさせて、旅行の説明をしてくれた。 私達(同僚と2人)はコーチンー>トリバンドラム(ケララ州の州都)の往路は経験のために夜行列車を利用し、 帰路はバスにすることとした。

 

コーチンからトリバンドラアムへは、一応1等寝台車のコンパートメントを予約した。出発当日の夕方、コーチンの鉄道駅に行くと大勢の乗客がコンコースで列車を待っている。 多くの乗客が通路に寝転んでいる(石の床は涼しい)が、それにはもう驚かなくなった。 寝ている人の間を通り抜けてホームに出る。 列車に乗ると車掌がコンパートメントに案内してくれた。 二人部屋でシーツを掛けたベッドが用意されていたが、毛布はあるが枕はない。 空調はなく、小型の黒い扇風機が1台のみ、首を振りながら回っていた。 窓には鉄の格子2本ほど入っており、窓からの出入りができないようになっている。

出発を待っていると「カッペ、カッペ」と叫ぶ子供のコーヒー売りの声が聞こえる。 「カッペ」はコーヒーのことだと思うが、私達には「カッペ」と聞こえる。 コーヒーか紅茶に砂糖とミルクがたっぷり入ったお茶である。 列車は特に変わったこともなく出発し、翌朝終着のトリバンドラム駅に無事到着した。

トリバンドラムの街は、インドがイギリスの植民地となる以前は、トラバンコーワ王国の主都であったと聞く(その当時インドは多くの王国に分かれていた。 マハラジャはそれらの王様の意。 マハ=大、 ラジャ=王)、比較的清潔で立派な都市である。

 

市内に一泊し、街を見物した後、インドの最南端ケープコモリン(現地名カニヤクマリ)に向かう。 ここは3つの海(アラビア海−西、インド洋−南、太平洋―東)が交わる所で、ヒンズー教の聖地の一つとなっている。 岬は岩がごつごつとした、だだつ広い地で何の変哲もない場所である。 海水は濁った感じで、とても清い水には見えないが、多くのインド人が海岸で水をかぶり沐浴をしていた。

この海岸で意外にも、大きなトランクを持った日本人の若い女性に偶然出会った。 日本から一人で来て、インドを旅行していると言う。 日本の女性は本当に元気だ。

 

トリバンドラムからの帰途は長距離バスに乗った。 コーチンの旅行社のおっさんが「このバスは座席がリクライニングになっている」と盛んにリクライニングの立派さを強調していたバスである。 しかし乗って見ると、硬い背中の板が少し後ろへ傾く程度で、がっかりした。

バスは国道をビュンビュン飛ばす。 交通ルールがあるのは紙の上(法律上)のみで、路上にはない。 国道を走る車はバスも乗用車も、まるでカーチェイスで、対向車線に出て追い越すのは勿論のこと、対向車線の更に外側を回って追い越すこともある。 車線を示す白線は殆んどのところでなく、例えあっても無視される。 途中交通事故を見ながら、それでもバスは無事コーチンへ帰り着いた。

 

 

2.コーチンー>ゴア

ゴアは鉄鉱石の積出港として日本でもよく知られている。 街の高台から見下ろすと、ゴア港の沖には沢山の鉱石専用運搬船が停泊していた。港の周辺の海は、鉄鉱石の錆で一面赤く濁って見える。

ここでの記憶は、日本へキリスト教を伝えたことで有名なフランシスコ ザビエルのミイラが、今も街の立派な教会に安置されていることである。 ザビエルは日本での布教の役目を終わって本国へ帰る途中、当地に立ち寄りこの地で没したと聞いている。

 

 

3.コーチンー>バンガロール

 コーチンからプロペラ飛行機で約2時間ほどの東北へ飛んだところにあるバンガロールは、今やIT都市として有名であるが、インド南部中央に位置する立派な街である。 インドの他の街でよく見かけるごちゃごちゃとした町並みは、ここでは全く見られず、垢抜けした、緑が多く花の美しい街である。

 

1970年代、既に日本のシチズンが立派は時計工場を建設して稼動させていた。 数十万uの広々とした敷地に建てられたすっきりとした工場を見ていると、インドにもこんな工場があるのかと驚かされる。 工作機械は総て日本製(シチズンの自社製?)で、部品から組み立てまで一貫生産している。

 当時インドの実情はまだまだ知られていなかったが、自動車のスズキと時計のシチズンはインドに早くから進出した日本の代表的な企業である。 先見の明がある経営者が決断したのだと思う。

 

 

4.コーチンー>ウタカモンド(ウーティ)―>テカディ

 コーチンから車で4、5時間、山間部を東へ走ると山間の静かで涼しい町ウーティに着く。 西に向かって開けた傾斜地には茶畑が開け、ゴルフ場もある。 イギリス人が昔避暑地として利用していたそうで、ゴルフ場はお茶園のオーナー達の私有になっているそうだ。 いつも空いているので、頼んでプレーさせて貰った。

ここの奥地(テカディ)には広大なWildlife Sanctuary (国立野生動物保護区)が広がっている。 保護区内のホテルに泊まる。 ホテルは周囲を巾5メートル、深さ3メートル程の空堀に囲まれている。 動物がホテルに入るのを防ぐためである。 夜になると遠くで野生動物の鳴き声が聞こえる。 将にWildlife ジャングルの真っ只中である。

翌日は動物の観察に出かける。 ホテルの近くにはダムによってできた人工の湖があり、この中を船に乗って観察する。 野生の象や猪、鹿などがいた。 アフリカのサファリーにはとても勝てないが、手付かずの自然を身近に体感できる。

 

 

5.コーチンー>コダイカナール 

コーチンからプロペラ機で1時間ほど東に飛ぶとコダイカナールと言う高地の保養地がある。 標高2,500メートルほどの山も近く、とても涼しい。 気温は1年中あまり変化がなく、「常春」と言える。 日中は日差しがきついが汗はかかず、日が沈むとぐんと気温が下がる。 

 私達が訪ねたときは、8月であったが、高原のホテルに着くと、ロビーには暖炉があり、火が燃えていた。 夫々の客室にも暖炉があり、薪が置いてあった。 夕食にホテル内のレストランに行くと暖炉の火が赤々と炊かれ、丁度良い快適な暖房である。 熱帯のインドで、8月に暖炉を炊くなど想像できるだろうか。 下界では30度以上でも、ここは標高が2,000メートル以上あるので、下界より15〜20度近く下がりこの気温になるのである。

 

イギリス人は発想が長期的で、休暇を快適に過ごすため、殖民地とした各地にゴルフ場や避暑地を開いている。 マレーシアのキャメロンハイランドなどもこの類で、常春の気候を楽しめる。

ここにも立派なゴルフ場があり、貸切状態でプレーを楽しむことができた。 但し、平日はキャプテン以外に誰もいないので、予め、予告をしてキャディーを集めておいて貰う必要がある(勿論カートなどはない)。

 

 

6.コーチンー>マドラス(現在名チェンナイ

インド南東部の都市チェンナイは年中暑く、季節はHot > Hotter > Hottest > また Hot と言うように変化する。 毎年正月になると、インド南部在住の日本人にはチェンナイにある日本総領事館から新年行事に参加するよう招待状が届く。 日本政府からの公式招待であるから、私用の旅行ではなく「出張」である。

 

大晦日には総領事館の庭で猛暑の中の餅つきがあり、元日には国旗掲揚、総領事新年挨拶の後、純日本風のおせち料理が振舞われる。 お鏡には巨大な伊勢海老も飾られていた。 立派な御節料理で、今までに食べたおせち料理の内でも最高級であろう。 当時インドは基本的に食料品は総て輸入禁止(総てインド国産品で賄えると言う原則論がある)であり、私達はごく少量にお土産として持ち込まれる日本米や味噌、醤油程度しか入手できなかった。 しかし、大使館や総領事館などの外国公館は、外交特権でどんな食料品でも国費で輸入できるのだから羨ましい。

 

その後、近くの町マヂュライにある南インドで最大と言われるヒンズー教の寺院を見学した。 石造りの壮大な建物の壁は沢山の彫刻で飾られている。 チップを弾んだせいか、お寺の案内人が30メートル以上もある大石塔の内側から頂上部分にまで案内してくれ、更に天井の窓を開けて、屋根の上まで案内してくれた。

屋外は猛暑でも、石造りのお寺の内部はひんやりとして涼しく、石張りの床で昼寝をしている信者も沢山見られた。 お寺の境内の中央には沐浴のための大きな池があり、ここでも水草と藻で緑色に見える水に入って多くの信者が沐浴をしていた。

 

インドでの暮らし その10 に続く