戦争の体験(その1 戦中)1999.8)

建国以来の大変化 「敗戦」 他国による占領」 米軍の爆撃機 機銃掃射 空から焼夷弾 空襲が日常茶飯事 防空豪 小学校が炎上 鮭の缶詰 学徒動員 終戦の詔勅

 

今世紀(20世紀)は、我が国にとって建国以来の大変化に次々と遭遇した世紀であった。 約300年の鎖国から明治維新を経て世界の舞台に再登場した直後、日清戦争、日露戦争、更には第1次世界大戦と、世界の大国を相手とした戦争を続けさまに経験し、遂には第2次世界大戦に突入して、日本の歴史で初めての「敗戦」と「他国による占領」を体験した。 

私は1937年(昭和12年)の生まれであり、この年は偶々第2次世界大戦が始まった年でもあった。 敗戦を迎えた時は7歳(小学校2年生)であった。 「第2次世界大戦」「敗戦」「他国による占領」と言う歴史的大変化の時期に、自分の身近で起きた出来事を記載して次の世代に伝えておくことは、貴重な体験をさせてもらった者の義務であろうと考えている。

当時私達の家族は西宮市に住んでいたが、もの心がついた頃には既に米軍の爆撃機による毎日の様な空襲が始まっていた。 空襲は昼夜を問わず何時来るか分からないので、寝る時も服と防空ズキン(雪国で子供たちが被っている綿入りの四角い頭巾)を常に枕元に置いておき、空襲警報が鳴れば直ぐに起き出して、防空壕へ逃げ込める様に用意していた。

米軍の爆撃機B−29(アメリカ ボーイング社製の4機プロペラを持つ大型機)が南の島(硫黄島か沖縄)から飛んで来ると先ず「警戒警報」が発せられ、ラジオが通常放送を中断して敵機が近付きつつあることを伝え、サイレンが鳴らされる。 更にB−29近づくと2段階目の「空襲警報」が放送され、短い間隔で断続するサイレンが鳴らされる。 敵機が去ってしまうと「空襲警報解除」となる。

昼間学校にいても「警戒警報」が鳴ると授業を中止して家へ帰って、近くの防空壕へ非難することになっていた。 通常は「警戒警報」があってから2、30分の時間を置いて「空襲警報」が発せられるのだが、時には「警戒警報」と「空襲警報」がほぼ同時に出たり、「警戒警報」が出ずいきなり「空襲警報」が出る時もあった。

ラジオの警報ではアナウンサーが、「敵B−29の編隊は、現在潮の岬方面にあって摂津地方に向かっています」などとわざわざ古い地名(摂津、播磨、難波など)を使っていた。 これは米軍がラジオを聞いた時に意味が分からない様にするためだと聞いたが、全く馬鹿げた話である。 自分達が被っていた防空ズキンもどれほどの効果があるのか不明だし、竹槍の使い方を練習して米軍が上陸してきたらこれで戦うと言っていたのだから、今から思えば何の効果もない単なる精神論であったように思う。

ある日こんなこともあった。 学校にいると空襲警報が鳴りだしたので授業は中止となり、給食のコッペパン(少し味の付いたパン)を貰って同じ小学生の仲間2、3人と帰宅していた。 学校から家までは500メートル程だったが、途中道を歩いていると空から艦載機(航空母艦から発進するグラマン社やロッキード社製の戦闘機)が飛んできて、空から機関銃で我々を撃ってきた(機銃掃射と言っていた)。 慌てて道添いのよその家に逃げ込んで無事だったが、艦載機は地上から操縦士の顔が見える程低空を飛ぶので本当に恐い。

B−29の場合はかなり高空を飛んでくる。 1センチ程の大きさに見えたと思うから5000とか8000メートルの高度であったろうか。 晴れていると5、6機が編隊を組んで飛んで来るのがよく見えた。 あまり恐いとも思わず眺めていた。 高射砲(飛行機を撃ち落とすため地上に置かれた大砲)が鳴るのは何度も聞いたが、撃ち落とされるのを見た事はない。

 B−29が空から焼夷弾(しょういだん 直径約10センチ、長さ約1メートルの鉄製の筒に油性の燃料が詰められている)を落とすのを見たこともあった。 それは夏の夕方で、花火が落ちてくる様に見えた。 焼夷弾は飛行機から落とされる時は10本程が鉄製のベルトで束ねられており、落ちてくる途中でベルトが外れて1本づつばらばらになるようになっている。 そのため夜間地上から見ていると、雲の上から小さな花火の様にひかるものが何10個と落ちてきて、途中ではじけて沢山の花火に変わりながら更に落ちて行く。

10分か15分もすると、さっき花火が落ちた辺りの空が明るくなる。 下では民家が焼けて空を明るくしているのだ。 悲しいがきれいな光景であった。 しかし「空襲が恐い」と感じたことはなかった。 なにしろ、もの心付いた時は既に戦争の真っ只中であり、空襲が日常茶飯事となっていたので、空襲は私にとって通常の生活そのものとなっていたのだから。

 我々が何時も避難していた防空豪は家から200メートル程離れた所に作られた大型のものだった。 100人は十分収容できたと思う。 小高い砂山を掘って幅7、8メートル奥行き20メートル程のトンネルになっていた。 内部は酒造メーカーが使っていた大型の酒樽の廃材(厚さ5センチ、幅30センチ程の木の板)を利用して、土が崩れてこない様に壁と天井を支えていた。 

昭和20年7月頃のある夜中、母親が「空襲警報やで。 起きよ。」と起こしてくれたので、何時もの様に服を着、防空ズキンを被って家族と共に防空壕へ避難した。  例によってB−29が飛来し、その夜は防空壕のすぐ近くにあった10数件の新築の家に焼夷弾が落とされ全戸が火事となった(なぜかそんな時期に10数件の家がまとまって新築されていた)。 目の前が火事となり、防空壕へ燃え移るかも知れな状況となったため、防空壕に避難していた全員はちりじりになって壕から逃げ出し避難した。 私は防空壕から出る際、家族と離れてしまい兄(小学校5年生)と近所のおばさんの3人で、広い麦畑(ねぎ畑だったかも知れない)に逃げ込んだ。

少し経って焼夷弾の投下は治まったので、麦畑を出て毎日通っていた小学校の方に向かった。 校門を入ると、木造2階建てで明治に建てられた小学校(当時は国民学校と呼ばれていた)の校舎がバリバリと大きな音をたて、夜空に炎を上げて我々の目の前で燃えていた。 同じ夜の空襲で焼夷弾を落とされたのだった。 自分の通っていた学校が炎を上げて焼失するのを、兄と一緒にただ呆然と眺めていたことを今でも鮮明に思い出せる。

小学校で常々やっていた、水を入れたバケツを大勢の人がリレー式に運ぶ消防訓練や、棒の先に縄を結びつけた火消し棒(現在拭き掃除に使うボンテと同じ様なもの)で叩く消火練習は、何一つ役に立たなかった。 B−29と焼夷弾に歯が立つ訳もなかったのである。 その後3人で家に帰った。 幸い我が家は焼けずに残っており、家族も全員無事であった。

学校が焼失した翌日、兄と学校へ行った。 空襲が激しかったためか、或いは休みの日だったのか定かではないが、学校にはほんの少しの生徒しかいなかった。 完全に焼失した校舎の焼け跡を何とはなしにうろついていた時、その一角に鮭の缶詰が沢山散らばっているのを見つけた。 鮭缶は現在売られているのとほぼ同じ大きさで、中身も同じである。 焼けてパンクしているものや、外側は黒焦げになっているが缶はしっかりしているもの、殆んど焼けていないものなど、様々である。 さっそく手で摘まんで食べてみると、何と美味しいことか。 二人で食べた鮭の味は、こりこりしたあの鮭の骨の歯ごたえと共に、今でもはっきりと思い出せる。

この缶詰は学校に駐留していた日本の軍隊が非常用として教室に備蓄していたものであった。 その後何日かして、この缶詰が生徒全員に分配され、家で食べた記憶がある。 私にとっての鮭缶は、特別の思い出のある食べ物である。

そんなことがあった少し前、小学校の校長が交代し、新校長の就任式があった。 校庭に生徒達が並び、その前を校長を先頭に何名かの人達(先生達であったかも知れないが、記憶が定かでない)が静かに行進して所定の場所についた。 校庭には畑や防空豪もあった。 学校のどこかに兵隊が駐屯していた様な気がする。

校長は戦闘帽(薄茶色の布製の帽子で当時そう呼ばれていた)をかぶり、鉄兜(鉄製のヘルメット)を首の後ろに掛けて、軍人と同じ服装をしていた。 校長が戦争をするわけでもないのだが、当時は大人達の多くがその様な格好をしていた。 要は何時でも戦えますよと言う「格好付け」である。 総ての国民が軍隊色一色に染め上げられていた。 悲しいことに日本全体が「軍人にあらざれば、人にあらず」の雰囲気になっていた。 学校もその雰囲気にどっぷりとつかっていた。 何しろ「学徒動員」と称して中学生まで戦争に駆り出されていたのだから。

私と同じ学校に通っていた姉(小学校高等科と呼ばれて、今の中学2年生に当たる)もその学徒動員で、学校から何人かの級友と共に兵庫駅近くの工場(今思うと、家から1時間はかかっていたと思う)に派遣されていた。 そこには軍需工場があり、どんな仕事をさせられていたのかは知らない。

ある日その姉が工場から帰ってきて、家へ着くと同時に母親にすがって泣き出したことがあった。 聞けば何かの事情で工場から全員が家に帰ることになったのだが、電車が不通で利用できず、友達と一緒に線路を伝って家まで歩いて帰ってきたのだと言う。 当時電車でも30分は掛かり、距離にすれば20キロはある。その道のりを中学2年生の女の子達が線路の上を歩いて帰ってきたのである。 どんなに恐く辛かったことか。 今思い出しても涙が出る。

空から米軍の飛行機が反戦ビラを撒いたこともあった。 内容はよく覚えていないが、早期の降伏を勧告するものだった様に思う。 その内容で一つだけ覚えている言葉がある。 それは「・・・は焼け野原、花の都は後回し」と言うもので、・・・は大阪だったか何処だったか忘れてしまった。 要は花の都即ち、京都、奈良は当分無事で、空襲しないと言うことだった。 京都、奈良は歴史的な建物が多くあり(軍需工場は少ない)アメリカとしても多くの文化財を灰にするのは忍びなかったのであろう。 また、それだけの余裕を持って日本と戦っていたのだ。 それに比べて日本は「鬼畜米英」(アメリカ、イギリスは鬼や畜生、人間ではない)と称して唯々敵視し、国民の不満や恨みを国内問題から国外へ向けさせるのにやっきになっていた。 

 そんなある日、ラジオで重大放送があると言う話が何処からか伝わってきた。 昭和20年8月15日、終戦の詔勅(玉音放送)であった。  当時、ラジオのない家庭が多かったが、たまたま私の家はラジオがあったのでそれを聞くことができた。 初めて聞く天皇の声は、低くて抑揚が少々ずれた感じのする、私には全く意味不明の内容であった。 ラジオ放送は未だ民間放送などなく、NHK第1、第2放送のみであった。 小学生の私には終戦が何を意味するかさえ理解できなかった。 何しろもの心付いた時は既に戦争の真っ只中であり、空襲が日常の出来事の様に感じていたのだから。 しかし、これで総べてが終わった。

戦争が終わった後も、小学生の私には特別変わったことはなかった。 毎日の空襲はなくなったが、焼けた小学校は戻って来なかった。 校舎がなくなったので、1キロ程離れた別の小学校の教室を借りて授業が始まったが、校舎再建の目途はないので、翌年の4月には元の小学校は廃校となり、間借りをしていた学校に吸収されてしまった。

進駐軍(米軍)の戦車や隊列を組んだ軍隊などは全く見かけることはなく、平穏な占領であった。 時たまMP(米軍の警察兵)がジープに乗って通り過ぎることがあったり、米兵が遊びで町を歩いているのを見る程度だった。

ここまで書いてきたことは総べて終戦もま近となった、昭和20年の夏頃から翌年に掛けての思い出である。 ほんの1年ばかりの思い出であるが、生涯忘れることの出来ない鮮烈な印象である。

戦争の体験(その2 戦後)